第一章 イマリとの出会いと初めての依頼 ⑥



 床の固さに目を覚ますと、僕は眠い目をこすりながらも、まだ新しい朝の光が差し込む、六畳間の部屋へと視線を巡らせた。

 ベッドの上にのる、一匹の狼の子供。日の光に白銀の毛がきらりと輝き、布団からはみ出た尻尾が、まるで風にそよぐ稲穂のように、床とベッドの間でゆらゆらと揺れている。周囲に散らばっているのは菓子のごみだ。僕が寝ている間に勝手に食べたのだろう。


 ……いる。本当に。昨夜のできごとは、夢じゃなかったんだ。


 僕は膝を床に滑らせるようにしてベッドに近づくと、まじまじとイマリの顔をのぞき込んでから、つんつんと触ってみる。


「む? むむむ……むう?」


 おお……触れる。やっぱり幻覚じゃない。というか、毛……気持ちいいな。

 我慢できずに、僕はイマリの背中をなでてから、そのふさふさの尻尾をもふもふする。


「おぬし……なにをしておる?」


 目覚めたイマリと目が合った。

 僕はとっさにイマリから手を離すと、その手を自分の頭のうしろへともってゆき、頭を軽くかきながらも、視線を漂わせる。


「え、ええと……その、あの……」

「もしや、神聖なるわしの体に、触れていたわけではあるまいな?」

「……ごめん。あまりにも気持ちよさそうだったから」

「ふん。まあよい。とりあえずは馳走じゃ。さっさと用意せんか」


 頷くと、僕は台所に向かい、朝食にと買っておいたクリームパンを皿に出して、ナイフで半分に切る。

 飲み物は牛乳だ。自分の分はグラスに注ぎ、イマリの分は、飲みやすいようにとスープ用の平皿に注いであげる。


「イマリ、ふと思ったんだけどさ」


 部屋に戻り、パンと牛乳をローテーブルの上に置くと、僕はイマリに聞く。


「どうしてイマリって狼の姿をしているの? 元は焼き物でしょ? なにか関係があるの?」


 ぷいっと、イマリが顔をそらす。まるで答えないという意思表示をするみたいに。しかしすぐに目を開けると、ちらりとパンを見てから、口を開く。


「知りたいのか?」

「うん。できれば。気になるから」

「であるならば、そのパンをわれに差し出すか?」

「あ、うん。もちろん。こっちがイマリの分――」


 言い終える前に、テーブルへと飛びのったイマリが、ぱくりとクリームパンをくわえて、二つとも、持っていってしまう。


「あ、それ、もう一つは僕の……」

「ほう! このクリームパン、ホイップも入っておるではないか! 素晴らしい! 実に素晴らしいぞ!」

「あ、うん。というか、パンでよかった?」

「無論じゃ。いつもは、桜の作る朝食をつまみ食いしているのじゃが、毎度まいど和食ばっかで、いいかげん飽きあきしておったところじゃしな」


 桜さん、料理するんだ。確かさっき、エプロンの下に学校の制服を身につけていたし、まだ高校生とかなんだよね。その歳で料理って……本当に偉いな。

 パンを無理やり取り上げるのも気が引けたし、多分そんなことをすると大変なことになる気がしたので、僕は諦めて牛乳をちびちびと飲み始める。


「して、どうしてわしが狼の姿をしているか、じゃったな?」

「うん」

「それは単純じゃ。大壺の一番初めの持ち主が、狼好きだったからじゃよ。わしの壷の隣には、いつも狼の剥製が立っとったわい」

「じゃあその物の置かれた環境によって、付喪神の姿かたちが決まると。基本動物なの?」

「そうじゃな。例外なく、全て動物の姿になるのお」

「ちなみに、名前は?」

「一緒じゃ。名前も環境に起因する。例えばとある器物が犬のえさ皿に使われていたとしよう。犬の名前がポチだったなら、そこに宿る付喪神もまた犬となり、名前もポチとなる」

「なるほど、そんな感じなんだ」


 答え終わると、イマリはクリームパンを食べ始める。どうやら甘い物が好きらしい。クリームの部分をなめると、「ほうっ」と感嘆の声をあげて、幸せそうな表情を浮かべる。あまりにもおいしそうに食べるものだから、見ているこっちも、なんだか幸せな気分になるような気がした。





 家を出て歩くこと十数分。住宅街を抜けた先、下町の一角に、洋蔵さんの店はあった。


 くすみ、黒っぽい茶色になった壁板。軒の部分がアーチ状に膨れ上がった、瓦屋根の出入り口。一見するとそれは、古くからある銭湯の建物のようにも見えなくもない。暖簾の上には店名の彫られた荒い木の看板が堂々と掲げられている。そこには次のようにあった。


【古道具みやび堂】と。


 道路沿いに大きな竹のすだれが立てかけられているのだが、アサガオのつるがたくさん絡み付いているので、まるで自然のカーテンのようになっている。全ての蕾が花開けば、きっともっと色鮮やかになり、道行く人の目を楽しませるに違いない。


 出入り口の前で立ち止まると、僕は一度そこで深呼吸をした。

 打ち水により立ち込めるむわっとした夏の匂いが、すっと肺を満たすが、緊張による胸の悪さまでは、取り去ってはくれない。


 上手くやれるだろうか……上手く話せるだろうか……なによりも骨董品、古い物……ようは黒い靄は、大丈夫だろうか…………。


 いつまでもうだうだとしている僕に対して業を煮やしたのか、肩に垂れ下がるイマリが、ぱこんと後頭部へと、猫パンチよろしく、狼パンチをくらわせる。


「早く入らんかい! なんと女々しいやつじゃ! 勢いよく戸を開けて、『たのもーっ!』でいいではないか!」


 いや、それはちょっと……。


 とはいえ、いつまでもここに立ち尽くしているわけにもいかない。もうすぐ……約束の時間だし。

 諦めという気持ちもあったが、なによりもイマリのパンチに背中を押されたので、僕は勇気を振り絞り、店内へと足を踏み入れる。


 休日の午前中というのもあるのか、店内に客の姿はなかった。あるのはいくらかの付喪神の姿だけだ。彼らは皆思い思いに時を過ごしており、骨董品や古道具に囲まれたこの趣のある空間で、次の買い手がやってくるのを、落ち着いた気持ちで待っているみたいだ。


 目の前に広がる光景に、思わず僕は、安堵のため息をもらす。


 ……よかった。黒い靄は、見えない。本当に、見えなくなっている。


 レジの脇の、アンティークの置物や小物類の入れられたガラスケースの前にやってきたところで、かすかに泣き声が聞こえた。なんだろうと視線を巡らせると、ガラス扉の向こう側に、わんわんと鳴き声をあげる、猫の付喪神の姿があった。


 ガラスケースは縦に長くて、高さは大体僕の身長ぐらいある。左右と正面がガラス張りになっており、取っ手のついた両開きの扉を開けると、中が棚になっているといった具合だ。猫の付喪神は、僕の目線の少し下、三段目のちょうど中央付近に、まるで精巧に作られた人形のように、うつむきかげんに座っている。

 話しかけようかとも思ったが、約束の時間が迫っていたので、僕はとりあえず見て見ぬふりをして、店の奥へと呼びかける。


「あの……すみません」

「やあ、春人くん、待っていたよ」


 レジの奥、引き戸の向こうから、洋蔵さんが姿を現す。昨日と同じく着物に身を包んでおり、安心感を与える柔和な笑みをその顔に浮かべている。


「……あの、昨日は本当に、申し訳ありませんでした。あの時は気が動転しており、しっかり謝れなかったので」

「いいからいいから。失敗や間違いは誰にでもあるよね。それよりきてくれて本当に助かるよ。これからよろしくね」

「はい。よろしくお願いします」


 優しくほほえみ頷くと、洋蔵さんは店の奥へと顔を向けて、桜さんの名を呼ぶ。

 出てきた桜さんはレジの脇にかけられていたエプロンを取ると、慣れた手つきで身につけて、僕たちのもとへと歩み寄る。


「じゃあ桜、私は今から買い付けの依頼で出かけないといけないから、あとは任せていいかな?」

「うん、分かった。何時頃戻る?」

「多分、昼過ぎぐらいかな」



 洋蔵さんが出かけると、店は僕と桜さんの二人だけになった。

 黄金色の電球に照らされた、骨董品や古美術、古道具に溢れた店内。こちこちと音を立てる、壁にかけられたアンティーク時計。眼下に広がる陳列棚には、巧みなカットが施されたグラスやら、クリスタルでできた薔薇の花のペーパーウェイトやらが、店内の淡い光を反射して、きらきらと幻想的な世界を作り出している。


「春人さん、今までにどこかで働いたことある? 接客経験とかは?」

「ここが初めてです。高校の時は、アルバイトが禁止されていたので」


 桜さんの、倦怠感の漂うため息。なんだかぴりぴりした空気が広がったような気がする。


「本当に大丈夫なの? 骨董品って、取り扱い難しいよ」

「が、頑張ります」


 口をつぐみ、じっと僕の目を見る桜さん。

 息が詰まりそうだ。

 すると先ほどから傍観していたイマリが、僕の耳元で囁く。


「たくましい娘じゃろ。早くに両親を事故で亡くし、ずっと洋蔵のもとで育てられたからのお。環境が人を育てるんじゃ」


 事故で両親を? だからおじいちゃんと二人で暮らしているのか。

 料理ができたり、その歳で店を任されるぐらいに仕事ができたりするのも、おそらくは生きていくため……。


「じゃあとりあえず」


 髪をくるくるしながらも、桜さんが店内へと視線を巡らせる。

 僕も桜さんの横に並ぶと、同様に店内を見てみる。


 改めて見ると、店内は結構広かった。スタンダードなコンビニぐらいはあるだろうか。外周が通路になっており、中に棚が三列走っているといった具合だ。二階もあるようだが、そこは奥の居間と同様に、居住スペースになっているらしい。


 ほどなくして、桜さんがあごに手を当てて頷いた。そして踵を返してレジ台の裏に回ると、ロッカーからよく使い込まれた箒とちりとりを取り出して、僕に渡した。


「とりあえず今はなにも任せられないから、掃除でもしててもらっていい?」


 正直、この提案には、胸をなで下ろさずにはいられなかった。いきなり店番とか接客とかを任されたら、しどろもどろになり、醜態をさらすどころか店に迷惑をかけてしまうのは、間違いなかったから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る