第一章 イマリとの出会いと初めての依頼 ③

 スマホのホーム画面に、ちんまりとした、狼の姿があった。


 狼は、銀の毛並みが眩しい子供で、今は画面の下部に座り込み、どこか倦怠感の漂う澄ました眼差しで、ちらりとこちらを見ている。

 耳とか尻尾とかがかすかに動いていることからも、どうやら写真などの静止画ではなくて、それ単体で動く動画……というか、キャラクターであるみたいだ。


 こんなアプリ入れたっけ? というかなんで勝手に? いつから?

 まじまじと見ながらも、僕はなんとなく、指でその狼に触ってみる。


「くすぐったいわい! 軽々しくわしの神聖なる体に触れるでない!」


 おおっ、しゃべった。か、かわいい……。

 もう一度狼に触れてみる。


「だから触るでないと言っておろう! まさかおぬし、わしを怒らせたいのか?」


 台詞が変わった。次はなんて言うんだろう。

 もう一度、今度は全身をくりくりとなで回してみる。


「分かった。今すぐそちら側にいくから、大人しく待っとれ」


 画面の向こうで立ち上がった狼が、こちらへと向かい歩いてくる。大きくなってゆく狼の姿に、整然と並んだアプリのアイコンが徐々に見えなくなってゆく。やがて狼の顔で画面がいっぱいになると、ガラスに顔をぶつけたのか、鼻がかわいらしくぺしゃりと潰れた。おそらくは鼻息の演出なのだろう。画面には息をはきかけた際に生じる白い曇りが、出たり消えたりを何度も何度も繰り返している。


 妙なリアリティーに思わず僕は上体を起こして息を呑んだ。バッテリーに負荷がかかっているのか、あるいは僕の手汗のせいなのか、スマホがやたらに熱く感じる。


「もうすぐじゃ。目にもの見せてくれるわ」


 スマホがぷるぷると震えた。目の錯覚か、画面が――いやスマホ自体が、内側から押されるように、球状に膨らんだような気がした。


 え? ちょっとこれ、まずいよね……。


 電源を落とそうとボタンへと指をやったその時、ぼふんという音と共に、白い煙が部屋一面に広がった。

 ベッドから転げ落ちる僕。あまりの驚きに声も出ずに、気がつけば部屋の片隅に身体を寄せて、荒々しくも肩で息をしていた。


「どうじゃ、参ったか」


 煙の向こうから声がする。幼い男の子のような声が。


「わしの名はイマリ」

「イ、イマリ?」


 ゆっくりと煙が引いてゆく。


「洋蔵の壷に宿っていた精霊――付喪神のイマリじゃ」

「付喪神?」


 そして完全に煙が引くと、ようやく声の主が、その姿を現した。

 部屋の明かりをきらりと反射する、美しくも流麗な白銀の毛並みに、ぴんと立った大きくてかわいらしい耳。もふもふした尻尾の毛は、窓から吹き込むかすかな風にさえも、小さくさらさらと揺れている。


 狼だ。スマホの中にいた狼の子供が、ベッドの上に立ち、僕へとそのエメラルドグリーンの瞳を向けている。


「どうした? わしのあまりの美しさに、言葉を失ったか?」

「しゃ、しゃべった。……狼なのに」

「当然じゃろう。見てくれはこうだが、わしはれっきとした、崇高なる付喪神じゃからな」


 付喪神? もしかして、これは夢?


「ちこう寄れ。今日からおぬしはわしの従者じゃからのう」

「従者? 僕が?」

「無礼者っ!」


 くわっと大声を出したイマリが、牙をむき出しにしながらも、僕の方へと向かいやってくる。


「たかが人間が、高位たるわしに、気安く質問をするとはなんと不遜な振る舞いか! 格の違いを思い知らせてくれるわ!」


 ひいっ! 殺される! ……って、あれ? こない?

 顔を上げると、そこには床に散らばった菓子の袋を気にするイマリの姿があった。

 イマリは鼻を近づけてくんくんと嗅ぎ、丸い手で上から袋をなでている。


「なんじゃ? これは」

「……ええと、お菓子だけど。チョコチップクッキー」

「ほう、チョコチップクッキーとな。一つ食うてみたいのう」

「え、あ、はい」


 散らばった菓子を袋に戻しながらも、僕は小袋を一つ開けてやり、イマリへと差し出す。


「うまい! うまいぞ! なんと美味な菓子なのじゃ!」


 目を輝かせてその場でごろんごろんと転がりながらも、イマリが感嘆の声をあげる。大口を開けて舌をぴんと突き立てるその姿からは、初めての刺激に狂喜しているというのがひしひしと伝わってくる。


「食べたことないの?」

「ない。洋蔵の家は基本、和菓子ばかりじゃからのう」


 手をぺろぺろとなめてから、イマリが姿勢を正す。その様はまるで犬のようで、本当にかわいらしく僕の目に映る。


「わしは機嫌がよくなった。どれ、一つ質問に答えてやるかの。どうしておぬしがわしの従者か? だったか?」

「うん。突然そんなことを言われても、よく分からなかったから」

「それはじゃの、壷……ようはわしが宿っていた古伊万里の大壷が割れる寸前に、おぬしの私物に乗り換えたからじゃ。おぬしの私物にわしが宿っている、じゃからおぬしはわしの従者じゃ」

「乗り換えたって、一体なにに?」


 あれじゃ、と言い、イマリがベッドの上のスマホを示す。

 立ち上がり手に取ると、僕はスマホを確認する。先ほど膨らんで煙が出たように見えたが、どうやら壊れてはいないみたいだ。本体に破損はないし、画面もしっかりと表示される。


「じゃあイマリは、現在このスマホの付喪神ってこと?」

「まさしくその通りじゃ」

「でも……付喪神って、なんかこうもっと、古い物につくっていうか……。使い古した桶とか、着物とか。確かにこれは型も古いし、使い古してもいるけど、スマホにつくとかって……急にそんなことを言われても」

「信じられぬというのか? 山川春人よ」

「え? なんで僕の名前を……」

「他にも分かるぞ」


 イマリがちらりとスマホへと視線を送る。


「歳は十八……ふむ、まだまだ小童じゃのう。生年月日は平成十七年十月九日。そういえば、今はもう令和の世か。わしが生まれたのは江戸時代で、寛保、宝暦、寛政、天保と渡り歩いてきたから、なんだか新鮮に感じるのう。ほう。出生は愛知であるか。ちなみにじゃが、山川という苗字は、愛知に多いのか? ……まあよい」


 スマホの画面が勝手に切り替わってゆく。まるで何者かにより遠隔操作されているみたいに。


「文のやり取りはどこかのう……こっちかのう……いやこっちかのう」


『文』というのは、おそらくはメールとかSNSのことなのだろうが、どのアプリが一体どんな役割を担っているのか、まだ理解していないみたいだ。片っ端から、しかもランダムに、次から次へとアプリが開かれては、閉じられてゆく。


「ふむ。これはキャメラのアプリか。ほうほう、こちらは遊戯のアプリじゃのう。あとで興じるとするかのう。で、こちらが無料で戯画が見られるアプリで、こっちが写真を保存する場所……」


 え……ちょっと……まっ……それ以上は……。


 やめさせようとスマホに手をのばしたが、遅かった。

 ラインのアプリに連絡のやり取りの痕跡を発見したイマリが、さっそくといったていで、見始める。


「これじゃの。どれどれ……ふむ、メッセージにも通話履歴にもおなごからの痕跡はないのう。さてはおぬし、恋人の一人もおらんのであろう。やれやれこれだから最近の若者は」


 というか……と言い、まるでとどめを刺すように、イマリが続ける。


「おなごどころの騒ぎではないではないか。おのこからも、ほとんど連絡はありはせん。登録された連絡先も、この『秀樹』とかいうやつをのぞいては、皆無といっても過言ではないではないか」

「分かった! 分かった信じるから! だからもう――どうか!」


 そして最後に、イマリが最終決定打を下す。


「……さてはおぬし、今はやりのコミュ障というやつであろう。哀れよのう。実に哀れじゃ」


 土下座……というか床に突っ伏した僕を、イマリがしたり顔で見下ろすと、満足したように鼻を鳴らして、まるで面を上げよとでもいわんがごとく、尻尾で僕の顔を叩く。


「まあ依代から依代に移ることができたのは、わしが数百年越えの立派な付喪神だったからこそできた芸当じゃがな。……しかしこの筐体、せまっ苦しくて仕方ないのお。我慢はしてやるが」

「え、ちょっと待って。数百年越えっていうのは?」


 不躾な質問に、きっと牙をむき出しにするイマリ。


 ひいっ! また怒られる!


 とっさに頭に手をやり半身の姿勢を取ったが、イマリからの攻撃はなかった。ちらりとイマリへと視線を送ると、僕に目配せをしながらも、くいくいと手を動かすイマリの姿があった。


 クッキーが、ほしいってことだよね……。


 口の中に入れてやると、ひと時幸せそうな顔でフリーズ、それからすぐにきりっとした表情に戻ると、やれやれといった雰囲気を醸し出しつつも話し始める。


「仕方ない、答えてやるかのう。わしが宿っていた大壺は佐賀で焼かれた伊万里焼というものじゃ。聞いたこともあろう? 知名度の高い陶磁器じゃからな。当時は海外でもとても人気があり、伊万里港からたくさん輸出されとったわい。本来であればわしも、海を渡り、オランダ東インド会社を通じ、どこかの王侯貴族の屋敷に飾られるはずであったが、直前で取りやめになってしまってのう。そのまま地元の市場に流れたんじゃ」

「え? 東インド会社って、十七世紀とかだよね?」

「だから言っておろう、数百年超えだと。わしは正真正銘の貴重品じゃわい。そんじょそこらのまがい物と一緒にされては困る。あろうことかそれを、おぬしが……」


 ……壊してしまった。


 心臓がどくんどくんと嫌な高鳴り方をした。暑さを感じるのに冷たい汗がシャツに滲んだ。


「まあ、せいぜい働いて、罪を償うんじゃな」


 そんな僕の様子を見たが、イマリは構うことなく、まるで興味を失ったようにベッドに飛びのると、体を丸めた。


「もう一つ……もう一つだけ、聞いてもいい?」

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