第一章 イマリとの出会いと初めての依頼 ②
「いないって……ここに」
異変に気づいたのだろう。何事かといった面持ちで、洋蔵さんも店の奥からやってくる。
「どうしたんだい?」
「おじいちゃん、この人、なんか犬がいるって言ってるんだけど」
「犬? 春人くんが、そう言ってるのかい?」
「もしかしてこの子、飼い犬じゃあなかったですか?」
犬の背中をなでながらも、僕は聞いた。
しかし洋蔵さんは、腕を組むと不思議そうな表情を浮かべて、あろうことか桜さんと同じようなことを口にする。
「すまないね。私にはそこに犬がいるようには見えないよ」
「え?」
「でも春人くんには見えているんだよね? そこに犬が」
――えっ? え? 一体どういうこと? なにがなんだか……。
立ち上がると、試しに僕は、店内にいる他の動物を、指をさしながらも一つひとつ並べ立ててみる。
「向こうの絵皿の上、オウムがのっています。そっちのタンスの上には狐が丸まっています。そこのガラスケースにはわんわんと鳴き声をあげる白い猫がいます」
ぽかーんと口を開ける桜さん。
桜さんは手で口を覆い、一度視線をそらしてから、再び僕へとその胡乱な眼差しを向ける。
「もしかして、打ち所悪かった? 早く病院にいった方がいいんじゃない?」
「…………」
どういうこと? なんで? もしかして洋蔵さんたちには見えていない? でも確かに触れるし。あれ?
「……春人くん、きみはやっぱり……」
あたふたする僕へと、洋蔵さんが手を差し伸べるような恰好をしつつも、半歩近づく。
「きみはやっぱり……そういう……」
「え? ええと……なにが――」
半ば、僕の言葉を遮るように、会話の流れに終止符を打つように、洋蔵さんは手を打ち小気味のよい音を響かせると、どこか納得したような面持ちで何度か頷く。
「きみは今、どこかでアルバイトをしているのかい?」
「え? あ、いえ、していません。これから探そうかなと」
「だったら、うちで働かないかい?」
「え?」
予想外の提案に、僕は思わず聞き返してしまう。
「ちょっとおじいちゃん! だからうちはそんなに余裕がないんだってば」
「うん、だからしばらくの間、ただで働いてもらうんだよ。重い荷物とかも運ぶし、若い男手はあっても困らないよね。それに最近私も足腰が痛くなってきてね。正直きてもらえるとすごく助かるんだ」
「ああ、まあ、そういうことなら……」
どんどん話が進んでゆく。僕のことなどそっちのけで。
口を挟めずにいると、洋蔵さんが優しくほほえみながらも、僕の方へと顔を向けて、もう一度聞く。
「で、どうかな? きてもらえると本当に助かるんだけど」
「ど、どうでしょう……」
アルバイト……しかも多分、接客あり……。
選べる立場ではないと頭では分かっているけど、でもやっぱり接客は……。
しかも……と声には出さずに一人で呟き、店内へと視線を巡らせる。
三百万円の弁償を告げられた時とはまた別の、嫌な動悸が胸の内に響く。
周囲には、壷や皿、タンスや机などといった、たくさんの古道具が置かれているので、否が応でも目に飛び込んでくる。それらは皆、僕を悩ませて、僕の人生に影を落とした、黒い靄の元凶だった物たちだ。
もちろん今は、なぜか黒い靄は見えなくなり、代わりに動物が見えるようになっているが……いつまた黒い靄が見えるようになるかは分からない。
また黒い靄が見えるようになったら、僕は多分……いや絶対に、逃げ出す。
思い出したくないから。地元のことを、親のことを、そしてなによりも、大好きだったおじいちゃんのことを。
あれこれ考えているうちにも、トラウマがよみがえってきて、僕は息苦しくなる。
とはいえ、割った壺の弁償はしないといけない。アルバイトはしないといけない。というかする。
それでもやっぱり、接客は……。
ふと顔を上げると、洋蔵さんと目が合った。
洋蔵さんは優しそうな笑みを浮かべて頷くと、まるで困っている人に手を差し伸べるように、握手の手をそっと差し出した。
「よろしくね」
「…………」
「明日からこられそうかい?」
「……あ、はい」
握手はしなかった。というかできなかった。でも、完全に流された。
もちろん、なにかを始めるのは難しい。でもなにかを断るのも、僕にとっては同じぐらいに、とても難しい。
……今度からは、気をつけよう。
*
カンカンカンと足音を立てて二階へ、僕は自分の部屋のドアを開けるとそのままベッドへと倒れ込んだ。
六畳間の一室。台所からはシンクに滴る水の音が一定のリズムで聞こえてくる。すぐ脇にあるローテーブルには、開いたままのノートパソコンと幾重にも積まれた教材の山が、前期試験の残骸として放置されている。
……結局、レポートの提出には間に合わなかった。でも、それはいい。自分が困るだけだから。それよりも洋蔵さんたち……。働いて返すということになったけど、本当にそれだけでいいのかな。もっと誠意のあるやり方があるんじゃあないのかな。
それともう一つ。店にいたあの動物たち。洋蔵さんと桜さんの反応からすると、二人には本当に見えていない感じだった。あれは一体なんだったのだろう。
仰向けになると、まるで記憶を振り払うように、小さく首を横に振る。
いや、きっとなにかの間違いだ。あの時は色々ありすぎて、頭がパニックに陥っていただけなんだ。
ため息をつくと、僕は一度目を閉じた。風呂に入るのも面倒くさい、食欲もない。なにかをするにはあまりにも精神が疲れすぎている。
仕方ないから今日はこのまま寝てしまおうと、目覚ましをセットするためにもスマホへと手をのばしたその時、まるでタイミングをはかったかのように着信音が鳴り響く。
画面には『
大学での、唯一の知り合いだ。
友だち……ではないのかもしれない。でも見かければいつも話しかけてくるし、いつもなにかしら誘ってくる、そんな人だ。
多分、僕に気を使ってくれているんだろう。それはとてもありがたいことなんだろうけど、正直僕なんかのために気を使ってくれるんなら、その分を他の友だちに回して、親交を深めた方が、より有意義だと思うんだけどな……。
僕は拒否も応答のボタンもタップすることなく、そのままの姿勢で待ち、着信音がその鳴りを潜めたところで、アラームの設定画面を開く。
するとまたもや、秀樹から着信が入る。しかも今回は画面を操作していたので、不本意にも応答のボタンをタップしてしまう。
『もしもし春人? もしもーし』
スピーカーからは、陽気であり、どこまでも快活な、秀樹の声が聞こえてくる。その声からは、いつも笑顔と白い歯をたやさない、秀樹の顔が思い浮かぶようだ。というか多分、今現在もそんな顔をしていることだろう。素で、真実心から。
出てしまったからには仕方がない……。僕はスマホを耳に当てると、秀樹に応える。
「もしもし……ええと、なんだった?」
『前期試験お疲れー。確か春人も今日が最終日だったよな?』
「うん。まあ」
『だからさ、飲み会にいこまい!』
「え? 飲み会?」
『そう、飲み会。大学の近くの居酒屋でやるから』
……飲み会。いったことないし、それはちょっと……。
『俺の友だちも何人かくるからさ。春人のこと紹介するよ』
こ、断ろう。今回は、断ろう。
『二次会は多分カラオケになると思う。前々から春人の歌聞きたいと思ってたんだよねー』
「あ、あの……」
『明日の十六時半に、とりあえず大学の正門のところに集合だから。じゃあ明日!』
え……ちょっ……まっ……。
切れていた。断りの言葉を挟む余地もなく、通話は終わっていた。
とはいえ、明日は【古道具みやび堂】にアルバイトにいくことになっている。どのみち予定があるのだから飲み会に参加することはできない。
あとで断りのメッセージを送ろう。明日の朝とかに送ろう。
不安と安堵がないまぜになった居心地の悪い感情を腹の底に感じつつも、僕はアラームがしっかりとセットされているかの確認をするためにも、今一度スマホの画面へと視線を送る。
――ん?
目を凝らしてぐっと画面を顔に近づける。
「あれ?」
思わず声に出してしまう。
異変には、すぐに気づいた。
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