第一章 イマリとの出会いと初めての依頼 ①
目を覚ますと、そこには知らない天井があった。
とっさに体を起こした僕は、鈍い痛みの残る後頭部へと手をやった。
畳の床に丸いちゃぶ台。テレビの横には年季の入った桐タンスがあり、上にはガラスケースに入れられた日本人形が飾られている。照明は頭上にあるペンダントライトだ。竹と和紙からなるシェードがかかっているためなのか、蛍光灯の明かりにもかかわらずどこか柔らかい印象を受ける。
……ここはどこだろう? さっきのおじいさんは?
その場に立ち上がると、僕はすぐ脇にあった引き戸に手をかけて、ゆっくりと開けた。
古い物特有の匂いが鼻腔をくすぐる。それは実家にある蔵に似た、悠久の時を思わせる匂いであり、同時に郷愁を誘う、多くの人にとってはどこか懐かしいだろう匂いだった。
床にはタンスやら机やら火鉢やらとアンティークの家具が置かれている。棚にはレトロなカメラや和傘などといった、主に小物類が陳列されている。どの品にも値札がついているし、なによりもすぐ目の前にレジがあることからも、ここが骨董品などを取り扱う、古道具屋であるのはすぐに分かった。ただし犬やら猫やらが放し飼いにされているところが、変わっているといえば変わっているだろうか。目が合うと、興味を持ったのか、一匹の柴犬が尻尾を振りながらも僕の方へとやってきた。
かわいい……いや、それよりも……。
恐る恐る、もう一度店内へと視線を送ってみる。
思わず僕は、顔をしかめてから、目を足元へと落とす。
……ど、どこを見ても、年季の入った、古い品物だらけ。
どくどくと、また心臓が高鳴り始める。手に汗を握り、腹の底にもやもやとした、強いストレスを感じる。
……でも、なんだろう? 先ほどから感じる、この違和感は。
感情と過去の記憶が結びついたのか、ようやく僕はその違和感の正体に気づいた。
『靄』だ。黒い靄が見えなくなっているのだ。今までは骨董品など、古い物を見ると、不吉で気味の悪い黒い靄が見えたはずなのに、今はそれが全く見えない。
一体どういうことだろう? こんなにもたくさんの古道具があるというのに……。
「気がついたみたいだね」
声をかけられて振り向くと、そこには老人の姿があった。
長い白髪をうしろで結んでいる。あらわになった顔には、見る人に安心感を与えるような、自然で愛着のある微笑が浮かんでいる。格好は紺の着物に乳白色の帯を巻いた、いわゆる古風な格好だ。胸元に茶色の玉があしらわれた羽織紐をつけているのだが、僕の目にはそれが礼節や貫禄を与えるようでかっこよく映った。着物にしわの一つなくて身だしなみが行き届いているからだろうか。全体的に清潔感や信用、親しみやすさのようなものが漂っているようにも感じられる。
「あ……あの、先ほど道でぶつかってしまった人ですよね? あの……本当にすみませんでした。本当に……」
「いいからいいから。それよりも大丈夫かい? けがはないかい? どこか痛むところとかは」
「僕は、大丈夫です。ええと……」
おじいさんの方は? と、僕は視線で聞く。
僕の意図を察したのだろう。おじいさんはにっこりとほほえんで頷くと、まずは自己紹介の言葉を口にする。
「私は
「そう……ですか」
ひとまずは安堵して、僕はもじもじと指を絡ませる。
「よかったら、きみの名前を聞いてもいいかな」
「あ、はい。
「山川……」
僕の名前を聞くと、洋蔵さんは苗字の部分のみを呟いてから、視線を斜め下辺りに落とす。そしてもう一度僕へと視線を戻すと、今度は「山川春人くん」と、確認するようなはっきりとした口調で言う。
「あの……その……なんといいますか……申し訳ありませんでした。ごめんなさい」
「もう本当にそれはいいから。それよりこれなんだけど……」
洋蔵さんにより差し出されたのは、提出するはずだった大学のレポートの入った鞄と、ぶつかった際に落とした僕のスマートフォンだった。
「これ、春人くんのだよね? 携帯電話だけど、落ちた衝撃で壊れてないといいけど」
軽く会釈をして受け取ると、とっさに壁にかけられた時計へと目をやる。時刻は十九時三十分。とうの昔に、レポートの提出期限は過ぎている。
単位を、落としてしまった。……でも、仕方ないか。なにもかも全部、僕が悪いんだから。
「……壊れてはいない、みたいです。……多分」
「それはよかった」
胸に手を当てて安心したように口から息をはくと、洋蔵さんは立て続けに聞く。
「家は近いのかい? 送った方がよさそうかな?」
「ええと、ここは……」
「ああ、そうだね。きみ意識を失っていたから。ここは私の店【古道具みやび堂】だよ。さっきぶつかったところから、結構すぐのところなんだけど」
「でしたら、ここから歩いてすぐですので、大丈夫です」それよりも……と僕は、言外で言う。
先ほど洋蔵さんとぶつかった時に、確かに聞こえた。なにかが割れる音を。ここが古道具屋さんで、洋蔵さんがその店主なら、おそらく……。
僕の言葉尻がどこか曖昧だったので、洋蔵さんが小首を傾げる。
……どうしよう。聞こうか、聞くまいか……。でも、どうすれば……どうしよう。
「なに? おじいちゃん、その人家に帰すの?」
突然会話に割り込んできたのは、学校の制服にエプロンという格好をした、黒のボブカットが目を引く、女の子だ。
「壺の話した? 弁償は? だめだよ。しっかり弁償してもらわないと」
女の子は、くっきりとした目つきに冷たい口調と、どこか威圧感がある。だがその反面髪につけられたピンク色の髪留めが、女の子らしさを醸し出している。
彼女は擦りガラスのついた引き戸の向こう、廊下側からやってくると、不機嫌そうな表情をその顔に浮かべて、洋蔵さんを見上げる格好で睨んだ。
「いいから
壺? 弁償? 僕がやった? じゃあやっぱり、僕はなにかを壊してしまった……。
「よくない。うちだってぎりぎりなんだから」
言いながらも、桜と呼ばれた女の子が、僕の足元に、一つのビニール袋をがしゃりと置く。
嫌な予感を抱きながらも、僕はその場にしゃがみ、恐る恐る袋の中をのぞき込んでみる。
焼き物と思しき大量の破片。白い素材に赤青金の色鮮やかな着色と、見るからに高そうだ。破片の量からしてもなかなかに大きな物、つまりは立派な物だったのは想像にたやすい。
「さっきおじいちゃんが博物館から引き取ってきたの。うちから貸し出していた物だから」
「……博物館。ええと、つまりそれって……」
まるで僕の言葉を引き継ぐようにして、桜さんは鋭い口調でオブラートに包むことなく、はっきりと言った。
「古伊万里の大壺。とても貴重な物。もしも値段をつけるなら、三百万円は下らない。ちなみにこれは秘蔵品で売り物じゃないから、保険とかには入ってないから」
――三百万円……。
言葉を失った。頭が真っ白になり、焦りからか喉がからからに乾いた。
「……わ、分かりました。ただ、今はお金がないので、いっぺんに……というのは、難しいんです」
自分の不甲斐なさに、僕は手を強く握る。
一瞬、親にお願いしようかという考えも頭によぎったが……あり得ないと思い直して、すぐに振り払う。
親には頼れない。……頼りたくない。できるはずがない……。
「ア、アルバイトをしながら、毎月返していくという感じで、お願いできませんか?」
僕は必死に、深く深く頭を下げて、懇願の言葉を口にする。自分の臓器を売る、まるでテレビの中のようなできごとを、頭の中に描きながらも。
腕を組み、判断を仰ぐように洋蔵さんへと視線を送る桜さん。
洋蔵さんは困ったように小首を傾げると、僕に顔を向けて言う。
「分かった。でも、無理はしなくていいからね。少しずつ、本当に少しずつでいいから」
「ありがとうございます。……ありがとうございます」
住所と名前、電話番号を書いた紙を洋蔵さんへと渡すと、今日のところはとりあえずお暇しようと、僕は肩を落として出入り口へと向かう。
背後からは桜さんによる、「おじいちゃんは優しすぎる! もっと厳しくいかないと!」という非難の声が聞こえてくる。それをなだめる洋蔵さんの声も。
心が鉛のように重くなった。洋蔵さんたちへの申し訳なさと自分への不甲斐なさで、心がぐちゃぐちゃになった。
時間が戻ってほしい。洋蔵さんとぶつかるほんの数秒前でいいから時間が戻ってほしい……本気でそう思うのだから、どうやら相当に参ってしまっているのは間違いないみたいだ。
出入り口の目前、古い大物家具類の前を通りかかったところで、先ほどの犬と目が合った。
舌を出して尻尾を振りながらも、黒くて愛らしい目で僕を見上げている。
やっぱりかわいい……。なんだかすごくなぐさめられるな。
その場にしゃがむと、僕は犬の頭をなでてから、軽くはぐをする。
「なにしてるの?」
うしろからやってきた桜さんが、冷たい口調で聞く。首を傾げて不審感のある眼差しで、僕を見下ろしている。
「え、あの、犬かわいいなーって。猫……そういえばさっき、猫も」
「え? 犬? 猫? なにを言ってるの?」
「いや……だから、この犬が……」
「からかってるの? 犬なんていないでしょ?」
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