【第五回富士見ノベル大賞受賞作】下町九十九心縁帖 増量試し読み

佐々木薫/富士見L文庫

プロローグ

 …なに……これ?


 眼前には、巨大な黒い靄が、まるで僕の行く手をさえぎるように、そびえている。

 黒い靄は、夏の黄昏時特有の真っ赤な空を背景にして、縦に横にと自在に形を変えながらも、黒い砂のような粒子を、中空へと立ち上らせている。


 ……もしかして、近くに骨董品が……? でも、こんなに大きな靄は……今までに見たことがないし……。


 僕は、脇に抱えた鞄を、冷や汗の滲んだ手で、ぎゅっと握り締める。中には、本日が提出期限の前期試験であるレポートが入っているが、今はそれどころではない。


 逃げないと、と思い、一歩足を下げたところで、黒い靄に異変が生じる。

 黒い靄の一部がにゅっとのびて、僕の背後に回り込み、そのまま僕を取り囲んだのだ。

 僕は、はあはあと息を荒らげながらも、そんな黒い靄を目で追うことしかできない。


 ……そんな……いつもはこちらに干渉してくることはないのに……。


 周囲は、闇に閉ざされた。唯一の光は、頭上から降り注ぐ、赤い夕日の光のみだ。



 ――おぬし、わしが見えるのか?


 気がつけば、黒い靄の一部が突き出て、僕の耳元に迫っていた。

 声は、その先端付近から発せられているみたいだ。


 ……声? 声!? 黒い靄が、しゃべった!?


 高鳴る心臓に、全身から吹き出る冷や汗。恐怖からか、背筋に悪寒が走り、僕の手は小刻みに震えた。


 ――ほうっ……ふむふむ。おぬし、なかなか興味深いのう……。


 はあ……はあ……はあ……はあ……。


 ――よろしい! ならば一時、この運命の戯れに、興じようではないか!


 うわああああああああっ!


 思わず悲鳴を上げると、僕はとっさに走り出す。脇目も振らずに、ただがむしゃらに。


 なにかにぶつかったのは、そのすぐあとだった。

 バランスを失い、転倒する白髪の老人に、地面に落ちて、なにかが割れる、耳をつんざくような破砕音。


 ――まさか、黒い靄のすぐ向こう側に、人がいるなんて……。


 視界がスローになる。

 胸ポケットから飛び出したスマートフォンがゆっくりと回転しながらも落下してゆく。


 地面に頭をぶつける寸前に――確かに見た。


 そびえ立つ大きな狼の姿を。


 そしてその狼が、勢いよく僕へと向かってくる光景を。

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