序幕

起句

 この世界のどこかには、別の世界に行くことのできる泉があるのだという。例えばそれは死の間際、走馬灯の中で垣間見えることがあるとも言われているし、実際にそこへ辿り着くこともできるという。ただ、それが一体どこにあるかは誰も知りはしないし、その泉に入った後どうなるかも勿論語られていない。世界を超える方法があると、まことしやかに囁かれているだけである。


 さて、そんな逸話があるとされている世界の、とある大陸の砂漠。砂塵のただ中で浮かぶように置かれている小さなオアシスがあった。強い砂嵐が起これば吹いて飛びそうなほどの頼りないその水の溜まり場は、緑の一束さえ生えてはいない。おそらく遠目で見ればその存在さえ気づけないほどの大きさである。

 そんな小さな小さなオアシスに、ふらりと一人の男がやってきた。日に焼けた褐色の肌に、ひょろりと細い四肢。少し汚れた旅装の裾を風にたなびかせながら、整えられていない黒髪に混じる緑の髪色と、目映いほどに鮮やかな赤いタッセルピアスが揺れている。男はその濃い翡翠色の双眸をオアシスに向けると、その水面へと指を這わせた。

「そろそろか」

 誰に聞かれるわけでもない短い独り言を吐いた男は、躊躇うことなく目の前のオアシスへと身体を傾けた。飛び込むように、落ちていくように。

 確かに小さいはずのオアシスだ。一面の砂丘の中で浅く在るはずのそれは、どうしてか底など見えないほどに深かった。空を何度も塗りこめたような深い深い水の底へと身体を沈めた男は、そのオアシスの大きさに見合うほどの音を立てて、吸われるように砂漠から姿を消した。

 沈む直前、髪の合間から見えた男の耳は、まるで人ではないほどに尖っていた。



 世界を跨ぐ泉は存在している。

 世界を超える水はそこにある。

 然し、それを人が超えることなどは出来やしない。

 それは人ならざる者のための水の扉だからだ。


 ──男の名は、ロンド。旅を司る、妖精である。

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