コムロウイの花火
朝河侑介
前日譚
過去編
第一話 白銀の雪、薄桃にて。
それは、雪の妖精に見初められたからだというのが、父さんの言い分だった。
数十年に一度、雪山から下りてくると言われている雪の妖精。僕等の村は、その妖精の加護の下で生きているらしかった。そして、その妖精は山から下りてきた日に、十三歳から十五歳の間の女子に魔法をかけ、また山に戻っていくのだという。
その魔法を掛けられた女子は全身が雪が這うように白くなり、体温がみるみるうちに低下。放っておくとそのまま凍死してしまう。そうなってしまう前に、白無垢を着させて赤の紅を引き、色んな花嫁道具を持たせて山に行かせるのだ。
それが、僕等の村に昔から伝わる、雪妖精様の嫁入り。
僕のお姉ちゃんが、雪になってしまう儀式だ。
「お姉ちゃん」
「なあに?」
儀式の前日。大分病気が悪化してしまったお姉ちゃんは、既に凍傷で右足と左肘が動かなくなってしまっていて、全く使えなくなっていた。
僕はベッドに横たわるお姉ちゃんに近寄ると空いた隙間に腰掛けて、真っ白になった左手の指先に触れる。そこはもう、氷の様に冷たくなってしまっていた。
「……お姉ちゃん」
「寂しいの?」
「……そんな訳、」
「ふふ、ごめんね。でも出来ることなら、あなたの制服姿が見たかったわ」
僕は次の春で、中学生になる。
お姉ちゃんとは一歳違い。僕はお姉ちゃんが大好きで、お姉ちゃんも僕が大好きだった。周りの兄弟がいる友達は毎日の様に喧嘩をするだなんて言っていたけれど、僕とお姉ちゃんは喧嘩をした事が無かったし、お父さんとお母さんも二人は喧嘩がなくて仲が良いなあ、だなんてずっと言ってくれていた。
そんな大好きなお姉ちゃんが妖精の元に行く事になったのはちょうど一ヶ月前。真夜中にお姉ちゃんが突然僕の部屋に来たのがきっかけだった。
「お、ねえちゃ……?」
「どうしよう」
「どうしたの、お姉ちゃん……?」
「わ、わたし、さっき……雪の妖精に会ってしまった」
震えるお姉ちゃんの身体を抱き締めると驚くほど冷たくなっていて、僕は慌てて両親を起こしに行った。
お父さんが街で一番年食いの長老爺さんを呼びに言って、母さんがお姉ちゃんの為に湯たんぽや温かいものを作っている最中、僕はずっと布団の中で震え続けているお姉ちゃんを抱き締めて、大丈夫と声を掛け続けながらも僕自身も不安に駆られ続けていた。お姉ちゃんの体温がどんどん下がっていくにつれて、お姉ちゃんがこのまま死んでしまって、僕の元から居なくなってしまうんじゃないかとずっと思っていた。
その不安は的中して、長老爺さんはお姉ちゃんを見るや否や、雪妖精様に気に入られたのかと呟いたのだ。そして父さんと母さんに、お姉ちゃんは雪妖精様の元に嫁ぐから白無垢を準備しなさいと言い、長老爺さんは儀式の準備をするからとそのまま出て行ってしまったのだ。
その場に取り残された僕は、暫く呆然としてから、静かに母さんが泣き崩れるのを何処か遠くなる意識の中で見詰めるだけだった。
それからは本当に早い一ヶ月だった。お姉ちゃんはみるみるうちにその黒髪は真っ白になっていって、肌も何方かと言えば小麦色に近かったものが透き通る白になっていった。瞳の色は銀に薄がかって、瞳孔だけが黒いまま。ずっと見てきたお姉ちゃんがどんどん白くなってしまっていく。大人達は毎日の様にお姉ちゃんの部屋を出入りしては、お姉ちゃんの病気の進行具合や白無垢の採寸やその他儀式についての段取りの話ばかりしていた。
僕の中で、お姉ちゃんが遠くなっていってしまうだけだった。
「ねえ」
「……うん?」
「お願いがあるの。聞いてくれない?」
「もちろん、いいよ」
そうして迎えた儀式前日。僕はお姉ちゃんの嫁入りが決まってからの一ヶ月間、片時もお姉ちゃんから離れる事無く寄り添っては色んな話をしてきた。
いつもは勉強しなさいやら学校に行きなさいと五月蝿い両親も何も言わず、僕はほぼお姉ちゃんとずっと一緒にいる事が出来た。
だけど、それも明日で終わってしまうのだ。
「明日ね、儀式では山中までは皆一緒に行くんだけど、途中から私一人だけで行く事になっているの」
「うん」
「その時、一つだけ私の好きなものを持っていけるらしいんだけど……あなたが持っていた桜の花弁の栞を貰えないかな」
「……あんな。僕が作ったもの、持っていくの?」
「うん。あれが欲しいな。あなたの代わりに、持って行きたいの」
「お姉ちゃん……」
僕はわかったと一つ頷いて、約束だよ。とお姉ちゃんと小指を絡ませ指切りをした。
お姉ちゃんが欲しがった栞は、去年僕が学校の遠足で行った隣村の公園に咲いていた桜がもう散り際で、その散った花弁を何枚か拾って持ち帰り作った栞だった。お姉ちゃんに見せたら来年の春には同じ公園へ一緒に行って、同じものを作って欲しいと頼むものだから、じゃあ二人とも制服を着て行こうねと言ったのだ。いつも忘れっぽいお姉ちゃんがそんな事を覚えていたのも意外だったし、きちんと約束したことを覚えていてくれた事も嬉しかった。
だけど、その約束は果たされないままお姉ちゃんは居なくなってしまうんだと考えると、どうしても胸が詰まって痛みだす。 僕の傍からお姉ちゃんがいなくなってしまうことはどうしても変えられないことなんだと思えば思うほど、どうしてお姉ちゃんが選ばれちゃったんだろうということばかり考えてしまうのだった。
儀式当日。
習わしでは、長老爺さんとその息子である村長、そして何人かの大人達と僕等家族、そしてお姉ちゃんが列をなして山へ入り、その途中まで行って儀式をしてから、お姉ちゃん一人でその先にある雪妖精様の祭られた祠まで行く。その後がどうなるかはわからない。今まで嫁入りした女子達は誰一人帰ってきてないらしいからだ。
白無垢に身を包んだお姉ちゃんは腹立たしいほど、今まで見たどのお姉ちゃんより綺麗だった。その姿に父さんが俯き、母さんが涙を少しだけ零した。
僕は右のポケットにお姉ちゃんから言われた通り、桜の花弁の栞を入れてから列に加わる。
遠く、遠く、どこまでも白い山肌。いつもなら動物の鳴き声が聞こえる山なのに、今日はずっと静寂が続いていた。僕等の歩く足音ですら雪が音を飲み込む様に響かず、何も聞こえない空間ばかり。先日から降り続いている雪は、今もまだ降り続き地面を白く染めていく。まるでお姉ちゃんの様に。
「……此処か」
「ああ。此処からは、嫁一人だけの聖域じゃ」
先頭を歩いていた長老爺さんが立ち止まり、振り返ってお姉ちゃんを見る。それから列を割って真ん中にお姉ちゃんだけを残してから、長老爺さんはその曲がった腰をすっと伸ばして懐の赤い口紅をお姉ちゃんにゆっくりと、壊れ物を扱うように優しく塗ってから横にずれて、皆と並ぶように並んだ。
「さあ、雪妖精様に選ばれたその宿命を誇りに思い、行きなさい」
「……はい、有難う御座います、長老爺様」
「…………ああ」
お姉ちゃんが一歩踏み出して、思い出したかの様に僕を振り返った。それを見て、僕は目から溢れ出しそうな涙を必死に零さないように耐えながらお姉ちゃんまで駆け寄ると、ポケットに入れていた桜の花弁の栞をお姉ちゃんに差し出す。
お姉ちゃんは小さく僕に「ありがとう」と笑いかけてからそれを受け取ると、自分の行く道を振り返り見上げてから、ゆっくりと山道を登って行った。
「おねえちゃん!」
僕の叫びにも似た声に、お姉ちゃんは立ち止まらない。雪に吸い込まれるようにその声は山に響いて、すぐに消えていってしまった。
その後の事はよく覚えていない。気づけば僕たちは下山していて、家に帰った後僕は泣きながらお姉ちゃんの部屋のベッドに座り込んでいた。もう辺りは真っ暗になっていて、きっと夕飯の為に誰かが呼びに来たのかもしれないけれど、それすら僕には覚えがなかった。
僕にとってお姉ちゃんが居なくなったことはあまりにも辛くて、苦しくて、まるで僕の中の大切なものがすっぽりと抜け落ちてしまったかの様な気分だった。
もう何時になってしまったかわからない。泣きすぎて熱くなった目元を擦ろうと無意識に手を目前に近付けて、ふと、あれ? と手を止めた。
何故か僕の指先が白くなっているのだ。何度か服の袖でそれを擦っても落ちず、どうしてだろう、雪山だし霜焼けにでもなってしまったのだろうかと考えた時にはっと頭をよぎったのは、お姉ちゃんもかかってしまったあの奇病のことだった。まさか、僕もあの奇病にかかっているとしたら。
はっと視線を上げた先に、お姉ちゃんの部屋の壁が見える。そしてそこに掛かるお姉ちゃんが着続けていたセーラー服も。
僕は迷いもせず、そのセーラー服に手をかけていた。
「……っ、はぁ、っ……はぁっ……」
雪は変わらず降り続けている。ゆっくりと、しかし着実に積もり続けている。その中を、僕はお姉ちゃんのセーラー服に身を包んだまま、さっき降りた山道を必死に駆け上がっていた。
既にお姉ちゃんと別れた場所はとうに過ぎていて、駆け上がった先で僕は一つの石で出来た大きな祠の前に辿り着いた。人気のないその祠の前にはお姉ちゃんが着ていただろう白無垢が捨て置かれていて、それ以外には何もない。勿論お姉ちゃんの姿も、雪妖精様の姿もそこにはなかった。
「おねえちゃ、っ……おねえちゃん……!」
「……ふむ、もう一人来おったなあ」
突然静寂に響いた声に身体を強張らせ辺りを見回すけれど、やはりさっきと同じように人の気配はない。きょろきょろと何度も見回す僕にその声はさも楽しそうにからからと笑った。
「見回してもおらんぞ。私は実態を持たぬからな」
「……あなたが雪妖精様ですか?」
「まぁ、人の子にはそう呼ばれているが、さて……お前が探しているのはお前の血の繋がった姉とやらだろう」
「……はい」
「すまんが、お前の姉は既に私の嫁……まぁ正確には後継ぎか。私の代わりに雪の妖精を勤めてもらう為に、既に人の身体を捨て雪の精としての器に移りつつあってな。もう止められんのだ」
「っ……」
僕の行動は無駄だったのだろうか。思わずぎり、と握った指先はもう既に感覚がなくなっている。凍傷が進んでいるせいなのかはわからない。
「お姉ちゃんと、どうしても、一緒に居たいんです」
「……ほう」
「どういう形でもいい。お姉ちゃんと居られれば、それでいいんです。だから、」
「分かった、分かった。お前の想いは充分に理解した。私ももうこの器を捨てる身だが、これでも何十年もこの村を守っておってのお。全盛期ほどではないが、多少の力は残っておる。それを使い、お前の願いを叶えてやろう」
「本当ですか!?」
「ただし、その器を捨てることになる。それでも構わんか?」
「……それは、どういう」
「お前も妖精に変えてやろう。ほれ、そこ。大きな枯れ木があるだろう。それはもう何百年も桜の精が居らずに枯れてしまってなあ。お前はどうやら妖精となる質はある。その身体に生えた雪がそう示しておる」
「これが……妖精になるために必要なものなんですか……?」
「おお、村を護るものの祝福じゃ。もっとも、お前たちにとってはそうではないやもしれんがな。……して、どうする。お前が人間を辞めてでも姉と共に居たいと言うのなら、お前を桜の妖精としてやるが」
迷う必要なんて無かった。僕は姉と居られればそれで良かったのだ。
「……はい。お願いします」
「ほほう、躊躇いがないのお。若くて重々。ならば……お前の姉が持っていた桜の花弁が役に立つか。……ふむう、この村は二人の兄弟にて守られるということか。何ともまあ、素知らぬ者は幸福なことよ」
雪妖精様の声と共に、急にふわりと身体が軽くなった。力が入らなくなったけれど、積もる雪の上に身体が倒れる感触はない。それよりも先に、意識が急激に重くなった。ただそれも不快感ではなく、むしろ温かい日溜まりの中で微睡む様な、そんな気持ちだった。
何処かで声が響き続けていたけれど、それさえ少しずつぼんやりと輪郭を纏わなくなってくる。でもその中で、僕へと語りかけてきていた声がお姉ちゃんの声に変わっていくような、そんな気がした。
そうか、妖精になるっていうのはこういうことなのか。そんな取り留めのないことを、手放す意識の中でぼんやりと思った。
とある街には、大きな森がある。その街には昔からずっと言い伝えられている伝説があるんだそうだ。
雪の妖精の嫁として贄に出された姉と共に居ようとした、とある妹。その妹が雪の妖精に願うと、妖精はその願いを聞き入れ、枯れ木を桜に変えてその桜の妖精として妹を置いた。
寂しさにより何十年に一度贄を持って交換されていた雪の妖精は、その贄となった姉と姉を追いかけて桜の妖精になる事を選んだ妹によって無くなり、二人はそれから何十年も何百年も、森の奥底から街へ災厄が降り注がないようにと守られているのだという。
街にはいつしか他の妖精も住むようになり、最初は小さな集落だったこの場所は、様々な祝福と共に発展していくこととなったのだと。
「お姉ちゃん」
「なあに、ユア?」
「今日も街の人がお供えものしてくれたよ。ほら」
「あら……これは川沿いの喫茶店の娘さんだわ。あんなに小さかったのに、もう文字を覚えたのね。……ふふ、見て。『カサネさまへ』だって」
「あはは、まだまだ練習が必要そうな文字だねえ」
「……ねぇ、ユア」
「なあに、お姉ちゃん」
「今年も綺麗な桜が咲いたわね」
「……うん、そうだね」
森の奥深くから、街を見渡す。
僕とお姉ちゃん、そして皆が守るこの場所は、あの日からもう何百年の時を経ていて──それでも変わらずに穏やかな日々が流れていた。
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