小姐、公子と再会する
小姐が屋根に登って落ちたのは去年のことだ。愛読書のひとつ、聶隠娘の物語に改めて感服し、彼女に倣って屋根の上を走ろうとしたのだ。
結果は言わずもがな、一歩目で体勢を崩した小姐はそのまま地面に激突し、片腕をぽっきり折ってしまった。私が真っ先に彼女を助けたというのも、大急ぎで梯子を用意していたところに小姐が落ちてきたというだけだ。
それでも背筋が凍る事件だった。もう彼女を危険に晒すわけにはいかないと心に誓い、そういうわけで私は脇目も振らずに屋敷まで走って帰ったのだ。
「ちょっと……ちょっと阿蓮!」
ようやく止まった私の手を小姐が振り解く。私たちは二人とも汗だくで、おまけに私は息が上がって何も話せそうにない。小姐はまだ話す体力が残っているようで、滴る汗を手の甲で拭いながら
「阿蓮、一体どうしたの? 何も言わずに走り出すなんてあなたらしくもない」
と不思議そうに聞いてきた。
「それに良いところだったのに。あのまま残っていれば、あの黒服連中が何者で、何を企んでいるのか分かったかもしれない――」
「そういう問題じゃないんですよ!」
私はたまらず怒声を上げた。小姐に対して声を荒げたのはこれが初めてだ。
「小姐、いい加減にしてください。あなたは物語の中の英雄好漢じゃないんです! 彼らの真似をしても危険な目にしか遭わないし、そもそもあの人たちの世界は私たち一般人がいて良い場所じゃありません。あの黒装束だって絶対ろくな奴らじゃないですよ。何ならあの場で殺されていたかもしれないんですよ? それなのに大丈夫なんて、どうしてそう思えるんですか!」
一気にまくし立てたせいで私は派手にむせてしまった。でも小姐は事の重大さがいまいち分かっていないらしい。
「阿蓮、本当にどうしちゃったの? そんなお話の中でもあるまいし」
「それはこっちの台詞です!」
私は一言叫ぶと、カラカラの喉で無理やり唾を飲み込んだ。
「とにかく、あいつらは危険です。絶対にこれ以上関わらない方が良いです」
私は絞り出すように言った。散々走った上に大声を出したせいで喉が刺すように痛い。
ところが、私は小姐の手の中にあるものを見て愕然とした——黒装束が隠した例の包みを、なんと小姐が持ってきていたのだ!
これにはさすがに目眩がした。なのに小姐はふらりと倒れかけた私を抱き留めて、呑気に「大丈夫?」なんて聞いてくる。
「大丈夫じゃありませんよ……どうして持ってきたんですか……!」
「だって、これはあいつらが盗み出したものなんでしょう? だったらあいつらに持たせておくわけにはいかないわ。その峨眉山から来たという方にお返ししなければ」
世に公主病というものがあるのなら、英雄病があってもいいはずだ。私は気が遠くなりながらそんなことを考えた——でなければ小姐の度を越したお転婆は、詩仙と詩聖が言葉の限りを尽くしても言い表せないだろう!
「ねえ阿蓮、あなたの気持ちには感謝しているわ。でも盗まれたものは元の持ち主に返さないと。それが道理ってものじゃない?」
「だったらまずは小姐が、前の持ち主にそれを返しましょう。あとは峨眉山の殿方に任せて、私たちは手を引くんです」
小姐はあまり乗り気ではないようだったが、ついにこくりと頷いてくれた。
「分かったわ。阿蓮がそこまで言うのなら」
そう言って笑う小姐に、私はようやく救われた気がした。これで今夜はぐっすり眠れそうだ。
「……でも、奴らがあれほど手に入れたがる品って一体どんなものなのかしら」
ふと小姐が包みを撫でて言った。私が「え」と声を上げるのにも構わず、小姐はちょっと見るだけと言い訳のように呟きながら包みを解いていく。
しかし包みの正体を見た私たちは、揃って「何これ……?」と声を上げた。
「峨眉山は仏教の聖地よね。なんでこんな呪物のようなものが大切にされているの?」
「しかもこれ、地獄絵図ですか……? なんでまた……」
私たちの前に姿を現したもの、それは禍々しい血みどろの地獄が描かれた一振りの短刀だったのだ。
「なんだか持っているだけで呪われそうだわ。阿蓮、早く返しに行きましょう」
「はい、小姐」
***
かくして廃廟へと引き返した私たちだったが、そこで本当に運が尽きてしまった。
黒装束の一人に、今まさに包みを返そうとしているところを見られたのだ。
「お前ら!」
男が怒声を上げ、私たちは思わず後ずさる。
「お前ら、なぜそれを持っている⁉︎」
「なぜって、そこの草むらにあんたが……」
「小姐!」
胸を張って言い返しかけた小姐を私は慌てて遮った。私は一歩進み出ると、かえって眉を吊り上げる黒装束に向かって一礼した。
「ご迷惑をおかけして大変申し訳ございません。ですが私たちも悪意があったわけではなく、ここを通りがかったときに偶然拾っただけなのです。どうかご容赦を」
黒装束がフンと鼻を鳴らす。私もすんなり聞き入れてもらえるとは思っていなかったが、それでも襟首を掴まれた瞬間は何が起きたか分からなかった。
気付いたときには私は男に捕まって、短刀を首に突き付けられていた。私は頭が真っ白になった――男に脅されるまでもなく全身が石像のように固まって、指一本動かすことができない。「阿蓮!」と小姐が叫んだが、泣き声を飲み込むのが精一杯だ。
さらに悪いことに、騒ぎを聞きつけて残りの黒装束が集まってきた。捕まっているのが年若い娘二人だと見るや、覆面から覗く両目が途端に下品な表情を帯びる。
「阿蓮を放しなさい。この刀はくれてやるわ」
小姐がわずかに震える声で男に語りかける。しかし、男は舌を数回鳴らして首を横に振った。
「そいつはできねえな。中身を見たなら尚更生かしてはおけん」
小姐はしまったとばかりに顔色を変えたが、少し歯を食い縛っただけで即座に言い返した。
「そんな……そもそもあんたたちが誰に持っていかれるか分からない場所に隠したのに、そんな言い方ってないでしょう⁉ この卑怯者! 人でなし! 犬畜生にも劣るクズどもが!」
小姐が悲鳴のように叫んだ罵詈雑言に黒装束は多少意表を突かれたらしい。一瞬ぎょっと目を見開いたものの、すぐに笑いながら小姐をつつき始めた。
「おお、言うねえ。一体どこで覚えたんだか」
「老大、こいつらを殺すのちょっと待ちませんか。もうちょい喋らせてみましょうぜ」
「ちょっと! 何するの!」
めちゃくちゃに拳を振り回す小姐を黒装束たちが嘲笑う。抵抗の甲斐なく小姐までもが捕まって、私たちは老大の掛け声のもと、いよいよ廃廟の中へと連れていかれる――
もう終わりだ。そう思った刹那、一陣の風が頬を撫でた。次いで首の殺気が消え、何かが落ちた音がする。老大の怒号が聞こえ、一発殴る音がして、私はぱっと解放された。
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