小姐、公子を探し求める
肖明星は名前を告げるとさっさと行ってしまった。私は胸を撫で下ろした――つまりこの肖明星は出会った女をその場でたぶらかすような輩ではないからだ――が、問題はこの後だった。
小姐は目の前に武芸に長けた美丈夫が現れたことですっかり有頂天になっていた。それが颯爽と駆けつけて自分を助けてくれたのだから尚更だ。小姐は肖明星を英雄好漢の鏡だと褒めちぎり、やれ百八星に加えろだの、加えなくていいからそれより燕青と取り換えろだの、彼がいれば天下泰平は目の前、彼こそが江湖の王、英雄の中の英雄、仙人の具現化、潘安さえも彼の足跡をひれ伏して拝む等々の文言を口を開くたびに叫ぶようになった。さらに信じられないことには、もう一度あのお姿を見られないものかと連日街を走り回るようになったのだ。
「だって助けていただいたんだもの、お礼のひとつもしないなんて失礼だわ」
小姐はもっともらしいことを言いながら私を引き連れて街中を練り歩き、果ては街はずれの廃廟にまで足を延ばした。
「そんなこと言って、お礼の品はどうするんですか?」
「この潘雪梅一押しの最高級の茶楼にご招待するわ」
「でも英雄は名利を求めずと言うんでしたよね? もし受け入れてもらえなかったらどうするおつもりなんですか?」
「それは名利を自分から進んで求めないということで、他人の好意を受け入れないという意味ではないわ。きっと応えてくださるはずよ!」
「でも小姐、もし仮に、万が一、肖公子の作法がなっていなかったらどうするんです? もしお茶よりお酒が好みだったら? 酒癖が最悪だったらどうします? 素行だって本当は悪いかもしれないし、もしかしたら本当は西門慶も顔負けの色魔だったりして……そうだ、親交を深めてから態度を変えてきたらどうするんですか⁉ もしそんな輩だったら大事です!」
「ちょっと阿蓮! 命の恩人に対して何て言い草よ!」
小姐が大声を上げて私を離したところで、私はようやく我に返った。どうやら興奮して言い過ぎたらしい。
私は慌てて頭を下げた。しかし小姐はため息とともに私の顔を上げさせると、
「まあ、心配してくれる気持ちも分かるわよ?」
と言った。
「阿蓮はうちに来てからずっと私の隣にいたんだもの。私がどんな奇想天外をしでかしてもいつもついて来てくれたし、屋根から落ちたときだって真っ先に助けてくれたし。お父様やお母様よりも、あなたが一番私を気にかけてくれているんじゃないかって思うときもあるくらいよ……今回も、私が素性の知れない男にたぶらかされないかって心配なんでしょう?」
小姐にこう言われては私も言い返すことができない。返答に困っていると、小姐は自信たっぷりに笑って言った。
「でも大丈夫、お礼をしたらそれきりだから。あとは彼の雄姿を心に秘めて一人慎ましやかに暮らすわ」
私ははてと首を傾げた。が、小姐は自分が何を言ったのか気が付いていないようで、私の両手をがっしり掴んできた。
「それはそうと阿蓮、さっき良いことを言ったわね。肖公子はお茶が好きかお酒が好きか……これは由々しき問題だわ」
「はい?」
私が呆気に取られて聞き返しても、小姐の目にも耳にも入っていないらしい。小姐は私の手をぱっと離すと、その手で頬を覆って黄色い声を上げ始めた。
「もしもお茶が好みなら、肖公子は文人気質の風雅なお方ということになるわ。でも、もしお酒が好みなら……! 美しくて強くて義侠心にも厚くてその上お酒も行けるなんて天下一の英雄豪傑よ! あの瀟洒なお姿からは想像もできないわ!」
……花も盛りの未婚の乙女にあらぬ妄想を植え付けて、これが許さずにおれようか。あの
私は爪で手のひらが切れるほど拳をきつく握りしめた。が、私の胸中はつゆも知らない小姐は、にこにこと無邪気に聞いてきた。
「ねえ阿蓮、あなたどう思う? 肖公子はお茶とお酒、どちらが好きかしら?」
「それより印度の秘薬でも飲ませて本性を見てやろうじゃないですか」
「ちょっとやめてよ! 縁起でもない!」
思わず口走った私の腕を小姐はぺちりと叩く。
そのとき、誰かの話し声が聞こえてきた。どれも男の声で、こちらに向かってどんどん近付いてくる。私たちははっと顔を見合わせると、すぐ横にあった草むらに慌てて身を隠した。
男たちはかなり焦っているようで、おまけに近付いてくるにつれて鉄錆のような生臭い臭いまでしてきた。葉の間から覗くと、仲間二人にぐったり運ばれている男がいるではないか。
私ははっと息を飲んだ。男たちは全員が黒装束な上に、一人は大怪我を負っている。これがただごとであるはずがない。
じっと息を殺していると、こんな会話が聞こえてきた。
「クソ、あの若造にここまでやられるとは」
「だが驚いた。峨眉山には女しかいないんじゃなかったのか?」
私と小姐はそっと顔を見合わせた。峨眉山といえば四川の霊山だが、その霊山からとんでもない実力者が来ていて、しかも彼は女性ばかりの中に一人混じって修行していたということか?
「あいつの正体はどうでもいい。今は老四の手当てが先だ!」
怪我人はどうやら老四というらしい。他の黒装束はそれで意見がまとまったらしく、口論をやめて急いで廃廟の中に入っていく。
私たちは動くに動けず、彼らが姿を消しても茂みの裏でじっとしていた。しばらくすると、一人が小さな包みを持って廟から出てきた。彼はため息をつきながらあたりを見回すと、なんと私たちのいる茂みに向かってまっすぐ歩いてきた!
身を固くした私と小姐だったが、男は不満をこぼしながら包みを茂みに押し込んだだけだった。
「まったく、隠すなら普通廟の中だろうに。老大ってばどうかしてんじゃねえの」
男は首を振り振り廟の中に帰っていく。その姿が消えるやいなや、私は小姐の腕を掴んで転がるように茂みから出た。
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