お転婆小姐と聖山の公子
故水小辰
小姐、公子と出会う
私のご主人様、「
私はというと、今日も今日とて連れ出され、茶楼という茶楼をはしごして玉石混交の英雄譚を聞かされてぐったりしていた。特に最後の話はひどかった――それでも小姐はあれがいいらしく、楽しそうに拳をでたらめに振り回して技名を叫んでいる。
「小姐、さすがにもう最後ですよね? あまり遅くなると奥様に叱られます」
昼下がりと呼べる時間はとうに過ぎ、夕暮れまでに帰らなければ私たちは大目玉だ。幸いなことに小姐はもう満足したらしく、
「分かってるわ、
と言ってくれた。それでも何かを蹴っているつもりなのか、足が不自然にぴょんぴょん跳ねている。
「あまりはしゃぎすぎないでくださいよ。またお怪我をされては大変です」
「分かってる、もう屋根には乗らないわ。それにここは地面なんだから大丈夫よ」
小姐がくるりと振り向いて少し口をとがらせる。
「そうですけど、もしも人にぶつかったら……」
今はその話はしていないと言外に込めながら、私はもう一度彼女をたしなめる。しかし、最後まで言い終わらないうちに人影がすぐ横を通り過ぎ、小姐が飛ばされるように私に倒れかかってきた。
「小姐!」
慌てて受け止めた私を無視して、小姐は通りを振り返って大声で叫ぶ。
「ちょっと! 何するのよ!」
彼女の視線の先では、薄汚れた男が他の通行人を跳ね飛ばすように走っていた。手に持っている包みは女物で、見るからに誰かから奪ったものだ。小姐の他にもぶつかられてよろめく人が何人かいて、その上私たちの後ろから「待って!」と叫ぶ女性の声まで聞こえてきた。そちらを向けば、小さな子どもを抱いた女性が息を切らして走ってくる。
それを見た途端、小姐の目つきが変わった。
「許せないわ。小さな子どものいる母親から荷物を盗んで、その上他の人まで巻き込むなんて!」
「小姐? ここは衙門に訴えましょう……」
小姐は早くも泥棒を睨みながら上衣の袖をまくっている。止めようとした私の言葉は案の定、小姐の義侠心によって完全に無視されてしまった。
「待ちなさい! この蒼生に仇なす不届き者!」
小姐は一言叫ぶと、風のような速さで走り出した。
「お待ちを、小姐! 雪梅小姐――!」
私も彼女を追って走り出したが、追いつくどころかどんどん引き離されていく。小姐は
「捕まえたわよ。観念して盗んだものを返しなさい!」
道の両側から皆が見守る中、小姐は堂々と言い放つ。私が人垣をかき分けて最前列に出ると、ちょうど小姐が包みを取り返そうと男ともみ合っているところだった。
「このあばずれが! 離せっつってんだろ!」
「誰があばずれよ! コソ泥のくせしてでかい口利いてんじゃないわよこの野郎!」
私は野次馬の先頭で眉間を揉み、ため息をついた。講釈の真似をして自ら泥棒を捕まえ、罵る令嬢が一体どこにいるというのだろう。
ところが私が呆れているうちに、泥棒は引っ張っていた包みを小姐に向けて唐突に突き出した。
小姐が倒れ、その隙に男は立ち上がる。慌てて駆け寄ろうとしたときには、小姐は結い上げた髪を掴まれていた。
「どこの馬鹿かと思えば、よく見たら良い顔してるじゃねえか」
形勢逆転、窮地を脱した泥棒は一転して小姐を鼻で笑う。
「どうだ、俺と取引しねえか? お前が俺に良くしてくれたらこの包みを返してやる。何ならお前に免じて足を洗うと誓ってもいいぜ」
これには小姐も怖気づいて、青ざめた顔を激しく横に振った。
「嫌。嫌よ離して!」
突き飛ばそうと出した手は逆に捩じ上げられ、男は下卑た笑顔を小姐に近付ける。私は男に体当たりしようと飛び出したが、男はすがりついてもびくともしないどころか、逆に跳ね飛ばされてしまった。
「阿蓮!」
小姐が叫ぶ。男はもがく小姐の腕をもう一度捻り上げ、意地汚い口をにやりとゆがめる。
もうだめだ。絶望して野次馬を見回すと、人垣の中から一人の若者がゆったりと歩いて出てくるのが見えた。
とても美しい青年だった――半分だけ結い上げた黒髪はとても艶やかで、残りは絹の帳のように背中で揺れている。きりりとした目元にスッと通った柳眉と鼻筋、扇子で隠れていて口元は見えなかったが、首から下の装いを見ても口元だけ醜いなんてことはないだろう。青年は落ち着いた足取りで私の前を通り過ぎ、男に「もし」と呼びかけた。
「あん? 兄ちゃん、何の用だ……」
男が言いかけた刹那、青年の手が男の腕に絡められた。一瞬のうちに男は小姐から手を離させられ、自由になった小姐を青年がしっかり抱き留める。青年はぽかんとしている男の顔に拳骨を食らわせ、次いでその脇に片手をかけると、流れるような動きで男を地面に叩きつけた。
野次馬が一斉にどよめき、青年に賞賛の声が集まる。青年はそれに応じることなく小姐だけを見つめて、
「大丈夫ですか?」
と優しく声をかけた。
小姐は彼の顔を見つめたまま、蚊の鳴くような声で「はい……」と答える。その顔には先ほどまでの恐怖は全くなく、そればかりか彼によってすべての感情が上塗りされてしまったように頬を赤く染めている。おまけに彼を見つめる目つき――あれは小姐が好みの英雄好漢を見つけたときの目に他ならない!
しかもそこには美丈夫に対する羞恥と気取りもあるらしく、小姐は我に返ったように彼から離れるとしなやかに(そして今まで見たこともないほどたおやかに!)膝を折ってみせた。
「小女子潘雪梅、公子のお助けに感謝いたします。……あの、ご尊名は何と……」
前半はまださまになっていたが、後半は完全に小姐の心境がだだ漏れだ。それなのにこの公子は、にっこり小姐に笑いかけるとこう言った。
「在下は
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