第29話 郭公
店を開けるまでやることはいくらでもあった。
小口取引の、翌月払込みになっていた業者への振り込みの確認と謝罪の電話。
開封済みだったコーヒー豆や茶葉のチェック。
ケーキ配達を請け負っていたお客様や業者への連絡、休業が長かったため少しケーキのラインナップを調整し、それに合わせて発注を調整。
長谷川はあまり俺と話したくないだろうから慣れないマニュアル作りもした。
営業再開のお知らせを書き終えた頃には夜もとっぷりふけていた。
「そろそろ寝るか……」
戸締まりを確認して電気のスイッチに手を伸ばす。
ジジ……
電球の光が歪む。
「誰だ」
客席に人影。
入店のベルもメルキオルの警告も無かったが、赤いキャップには見覚えがあった。
「やぁ、こないだぶりだね。お兄さん」
赤穂忍
たまの弟
「俺にしたことを、覚えているか」
「解除はできていないみたいで良かったよ」
ばちりと耳元で音がする。
小さく呼吸してからセロトニンを合成し、怒りを無理矢理抑える。
「それで、今度はなんの用だ」
「別に嫌がらせに来たわけじゃない。お願いに来たんだ」
「…………」
前回のことがある。安易に信じていい相手ではない。
「対価として、赤穂白雪の情報をあげよう」
「お前はなんなんだ」
「知りたいんだろう?」
忍はたまに似た顔でくすりと笑う。
「対等に取引できる立場だとでも思っているのか?」
メルキオルはもう俺の手に納まっている。幾つか術式の構築も済ませた。いつでもやれる。
「してもらうさ、姉さんのために」
「たまの……?」
忍はポケットから取り出したミサンガのようなブレスレットをテーブルに置いた。
「これを姉さんにあげてほしいんだ」
「メルキオル」
複写の小鳥が周囲を舞う。本体は籠の中で忍を見ている。
『魔術錠だね、よく出来てる』
魔術錠は素子展開を阻害する術具だ。つければ大抵の術士は術が抑制されるか使えなくなる。
「こんなもの、渡すわけ無いだろう」
「いいや、君は渡すことになるよ」
忍の上げた手の動きに合わせ俺はたたらを踏んだ。
身体の制御を奪われた訳ではない、強烈に嫌な予感を感じたから無意識にそうしてしまった。
「前回は騙し討ちしたからね。礼として今日は先払いしておくよ」
忍は席から立ち上がると紙ナプキンを一枚飛ばしテーブルに広げた。
「乾く前に読みなよ」
言葉尻が消えるのに合わせるように忍の姿もかき消えた。
テーブルに残ったのはブレスレットと紙ナプキンだけ。
紙ナプキンには水で文字が書かれている。
「メル……」
『記録したよ。朔』
「…………」
ゆっくりと文字が乾いていく。
僕らの本当の母親は赤穂白雪だ。姉さんにそれをつければ勝手に向こうから迎えに来るだろう。この事実を、芦原環は知らない。
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