第3話 講義①
魔法使いとは何であろうか
俺、望月朔はルーズリーフにペンを走らせる。
「俺たちが術やら魔法と呼んでいるこの能力は、境界内定理崩壊現象と呼ばれている」
「現象…ですか?」
環は紙を凝視している。
俺が環の記憶改竄に失敗してから一週間余が経っていた。
日曜午後の昼下がり。ランチタイムの客が帰ってからブラインドを閉め、店の前にCLOSEDの札を掛け、客席で俺は環に授業を行っていた。
通常の喫茶店であれば喫茶の時間だが、俺がこの時間店を開けているのはそもそも稀である。
特に、環が来てからは。
逃げるように不規則な営業時間を更に狭めていたが、日曜に朝から開店前の店の前に居座られてはどうしようもなかった。
「核反応みたいな意味じゃないぞ。」
喋りながら思考する。
環のバックグラウンドは依然として謎が多い。
本人が無自覚である以上。記憶改竄については話す必要は無いだろう。状況から彼女が自己防衛を自らの意思でやってのけたとは考えづらい。彼女の周囲に対抗術。すなわち脳のプロテクトをかけた人間…いや、術士がいると考えるのが自然だ。
俺は冒険はしない。面倒な物件はその手の適当な奴に預ければ良い。
今俺がするべきは、眼の前の少女と敵対もせず。過度になれ合わないこと。
俺は水の入ったグラスを環の前に置いた。
「グラスの中の水を手に触れずに動かすにはどうすれば良い?」
「息を吹きます」
「まぁそれも正解だ。」
"手"を触れず。というルールは守られている。
「師匠ならどうするんです?」
「……し……」
環はじっと朔の目を見ている。俺は視線を逸らす。
「師匠はやめてくれ」
環は首を傾げた。
「では……先生で……」
「う、うむ。まぁ、良いだろう。暫定だが」
念押しして朔は掌をグラスの上にかざした。
「俺はこうする」
水面が一瞬光り瞬時に水が消える。
蒸発の挙動すら無い。
「今のが魔法だ」
環は目をぱちぱちと瞬きさせ、空になったグラスを凝視する。
「水を……蒸発させたんですか?」
「電気分解だ。電圧を掛けて水を水素と酸素に分解した。理屈は、分かるか?」
本当に高校生か?というニュアンスを知ってか知らずか。環は冷静に答える。
「……化学は分かります。でも、どうやって発電するんです?」
俺は掌の上にテーブルの上に置いてある紙ナプキンを一枚載せ、軽く息を吸う。
ふわりと紙ナプキンが浮き上がる。
「静電気だ」
「説明になっていません。非接触で静電気を操作するプロセスがわかりませんし、電気分解に必要分の電力を賄えるとも思えません。」
環が軽く頬を膨らます。まるで子供である。
いや、子供で良いのだろうか。微妙な年頃だけに判断が難しい。
「そうだ。物理現象には過程が必要だな」
紙ナプキンをより高く飛ばしながら朔は続ける。
「それを埋めるものが俺たちにある《才能》だ」
頭の高さ程に浮いた紙ナプキンがくしゃりとつぶれた。
「やっている事は何て事は無い。脳内で物理現象と折り合いを付け、それを」
つぶれた紙ナプキンが広げられ、浮かんだまま鶴の形に折り畳まれる。
「反映させる。静電気による初期浮遊からの力場の発生」
指をついと動かすと鶴は燃え上がる。
「紙繊維の変形と、燃焼」
環の目がまたきらきらと輝いている。俺は視線を外したまま話し続ける。
「今可視化してやる」
更に指を動かすと俺の周りに光る糸が出現する。
「なんですか…これは」
環が手を伸ばすが糸を掴む事は出来ない。糸は空気に溶ける様に消える。
「これが今の俺が展開した領域だ」
「領域…?」
「境界、もしくは領域。この範囲で俺たちは仮想力場を構築し、物理法則を埋める事が出来る」
「埋める…先程の折り合いの話ですか?」
「そうだ。少なくとも俺と俺の知る数人の術士は難しい事なんてしていない。ただ自然に起こりうるには足りない部分を能力…概念的に魔術素子と呼ばれるものの消費で補っているだけだ」
灰が集まり鶴の形になる。
「俺は紙を消していない。飽くまで燃焼させただけだ。火は圧力で」
鶴をゴミ箱の上まで飛ばし、離す。はらりと灰は崩れゴミ箱に収まる。
「さっきの水みたいな分解や再構築はそれなりに消耗するから、もっとシンプルな術の方が使い勝手が良いな。さっきの水は熱で蒸発させても良いし普通ならそっちの方が圧倒的に楽だ」
今度は椅子をもちあげて離す。椅子は落下せずその場にとどまっている。
「今度は理屈は簡単だ。落下を止める為に上向きに力をかけている。重力とベクトルは分かるか?」
「はい……魔法とかじゃないのなら……」
確か数学Bと物理の範囲だったか?今の高校の授業範囲は把握していないが、分かるのであれば問題は無いだろう。
「お前が撮った写真は大体これとベクトル操作の応用で移動していた時のものだ。方向に掛かる力の相殺と加重。椅子を停滞させるだけなら吊したり椅子の下に何かを作るって手もあるんだが…まぁ引力、ベクトル、重力の順で消費は大きい」
手を払う動作をするとすとんと椅子が落ちる。
「術を使うにはさっき見せた領域の展開が必要になる。」
肩をすくめ俺はボールペンを手の中で回す。
「ここまではなんとなく分かったか?」
「境界っていう範囲の中で現象をねじ曲げられる……ってことでいいのでしょうか……?」
「概ねは。他にも言語魔術やら魔法陣やら儀式系やら…派閥宗派によっても術の使い方はかなり異なるんだが、大体は範囲を決めてその中で行われる、そして素子を消費するってことだけ覚えておけ」
「はい」
環は熱心にメモを取っている。
「で、だ。今日の本題だ。おま…君の指導者についてだが、術者の協会があるからそこで紹介してもらう」
環の動きがぴたりと止まった。
「魔法使いって…沢山いらっしゃるんですか…?」
「総数は知らんが全世界になれば数万はいるだろうな。」
「数万…」
俺も実のところそこまで界隈に詳しいわけではない。とりわけヤバい事、必要な事以外には特に疎い。
そもそも術士というのは大概、無関係の他人に対して興味を持たないものだ。
それに…
「あなたじゃ…駄目なんですか?」
「…駄目だ」
ぱっちりとした瞳がこちらを見つめる。
「どうしても…ですか」
「ああ」
環はがっくりと肩を落とした。
「そう落ち込むな。俺より指導者に向いている奴は五万といる」
「……」
「兎に角だ。先方に話をしてあるから。連絡があるまで待て」
「それってもうここには来るなってことですか?」
「……俺の言葉を丸のまま信用するか?」
「……」
「来る事は構わん。ただ毎日は勘弁してくれ。ここは普通の店だ」
俺はカウンターの中に回るとガステーブルに火を入れた。
「はい……ありがとうございます」
俺が慣れた手つきで湯を沸かすのを環はじっと見ていた。
「飲み方は」
急に話し掛けたせいか環は目を丸くする。
「え?」
「紅茶。俺のおごりだ」
「あ、はい…じゃ、じゃあ…ストレートで…」
ふわりと茶葉の香りが立つ。
環は椅子の背に体を預けて零すように呟いた。
「とても、綺麗でした」
「?」
「先生の飛ぶ姿。きらきらして」
「本来は見える物ではないが、君は見える体質だったみたいだな。」
可能な限りはぐらかし、俺は紅茶をティーカップに注ぐ。
「ほら、砂糖は…いらないんだったか?」
「いえ、紅茶は入れた方が好きです。ありがとうございます」
少し茶葉を入れすぎたので多く淹れてしまったので自身もカップに残った紅茶を注ぎ、口を付ける。
「そもそも、なんで術士になりたいんだ?空を飛びたいのか?」
好奇心というほども無い、とても些細な疑問。
「違います」
「何がしたいんだ?それによって勉強する内容も変わるだろう?」
「記憶……を」
俺はぎくりとするが、環はこちらを見ていなかった。
「私は、昔の記憶をなくしているので。それを思い出したいんです」
「それは、君自身が術士になる事とイコールでは無いんじゃないか?」
精神科、脳外科。まず環が頼るべきは医学方面なのではないだろうか。
「違うんです。いいえ、お医者様にはもう相談したんですが、どうにもならないだろうと言われてしまったんです。それに……」
環の顔には悲壮感と、確信と、絶望があった。
何が高校生の少女にこんな表情をさせるのか。
「私は、私の記憶が消された記憶があるんです」
「…………」
意味が分からなかった。
「記憶が…ある?」
先程記憶が無いと言っていたのはなんだったのか。俺は思わず顔をしかめる。
環は鞄に付いた猫の様なマスコットを指先で弄りながら更に表情を暗くした。
「私の記憶はくっきりとある瞬間から途切れているんです」
「何故それが消されたと分かる」
「犯人……だと……おもうひとに……そう言われたので」
また、背中に嫌な汗が伝う。
俺も環の記憶を削除しようとした事には違いない。
もし万が一バレた場合、この少女がどんな凶行に及ぶか定かではない。
「私が目を覚ましたとき、目の前に男の人がいました。知らない人でした」
「それは…割と最近の事なのか?」
「…9年前です」
全く最近ではなかった。
「…何歳の時だ?」
「8歳の時です」
17歳。改めて見てもとてもそうは見えないが17歳と言い張るからには恐らく17歳なのだろう……。
「今でもはっきりと覚えています。と言うよりその後の事はすべてはっきりと覚えているんです」
「すべて?」
誇張はあろうが、それはそれで異常に感じる。
「男の人が立ち去った時、私は失血死寸前まで血を失っていました。」
その状態で記憶が明瞭だったと言いはるのか。この娘。
「意識を手放す直前、その人が去り際に言ったんです。『良かったな奪ってやったぞ』って」
「それが記憶だと何故わかる」
むしろそれは失血状態の朦朧とした意識が生み出した幻聴を疑うのが先ではないだろうか。
「他にとられる様な物がなかったからです」
「……」
「言い辛いが、乱暴されたとかそういうせいではないのか?そのショックで記憶が飛んだとか」
環は首を振る。
「私は失血していましたが外傷は一切無いという診断でした」
「は?」
「傷はなく、私の血だけが服に付着していたそうです。それもかなり大量に。念のために血液を調べました」
ちょっとしたホラーである。
だがしかし、なるほど環という少女が魔術や魔法を信じたくなる気持ちも分からないではない。
「目が覚めたとき……私はそれまでの、男の人が去っていくまでの自分の事を全て忘れていました」
「……」
ショックによる記憶障害であればそういうこともあるのではないだろうか。
「でも、自身について、以外の記憶は一切失っていなかったんです」
「?」
「つまり、万里の長城が中国にある、だとか。リンゴの英語のつづりはapple、だとか。そういう記憶には一切の影響がなかったんです」
「それは、8歳の思考か?」
真剣に話している相手に申し訳ないと思いつつも口許が緩んでしまう。
何もかもが作り物臭い話だ。
「自分でも、どうかと思う点は多々あります。ただ」
「ただ?」
カップを握る。紅茶は冷めてしまった。
しかし、環の話が気になる。
「弟が居た気がするんです」
「そういえば、他の家族は?」
「父、母、兄がいます」
「聞いたのか?」
「弟なんていないだろう。と」
「家族はしっかりしてるんだろう?じゃあ居ないんじゃないか?」
「でも……」
「弟がいた気がする。というそちらの思考が後付けでついてしまった幻覚症状の一種なんじゃないかね」
「それでも…それを確かめる為にも…記憶を取り戻したいんです」
「精神科の領分だろ」
生温い紅茶を口に運ぶ。渋みが出てまずい。
確かに、妙な話だ。
ただ、一つの仮説が生まれた。
環の頭にプロテクト……即ち対抗術を張っているのはその男かもしれない。ということだ。
ただし、本当に環は記憶を消されたのか。
消したとすれば、何故そんな半端な消し方をしたのか。
何故、環を傷つけた上で殺さず生かしているのか。環を生かしておく必要があるのか?
そもそも血を抜いてかけるという行為がまず分からない。
何か儀式的な意味でもあったのだろうか。
疑問は尽きない。
「君の家は何か特別な稼業でもやってるのか?」
「いいえ?普通です。父は雑誌のライター。母はスーパーで働いています。兄は商社の営業です」
「お父さんの書いている雑誌は?」
「オカルト雑誌です。あまり大きな出版ではないのですが、月刊ストーンヘンジ。知りませんか?」
「悪いが、知らん」
環は苦笑いを浮かべた。元から期待もしていなかったようだ。
「嘘だと思いますか?」
「ああ」
「お医者さんにも同じ返答をされました」
「……」
「そういうことです」
確かに、家族が他にもいて、それを自分しか覚えていないかも知れない。というのはなかなかキツい状況だろう。
兎に角、環の家庭環境を調べる必要はありそうだ。
環が店を出るのを見届けてから、俺は携帯のアドレス帳を開いた。
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