変わったお仕事

川谷パルテノン

先輩

「ぼぇええーーーッ」

「大丈夫すか? 飲み過ぎですよ」

「ハァ、ハァ ねぇ」

「なんすか」

「キスじで」

「やですよ」

 電柱脇で吐きまくる矢神叶子の背中をさする。到底頼れる先輩とは言い難いこの泥酔女は職場の上司だった。仕事の相談とかこつけて焼き鳥屋に誘ってきたのは向こう側。後輩の僕に有無を言わさず引き摺って一人べろべろに酔っ払って気持ちよくなってすぐ気持ち悪くなってゲーゲーやって。こんなことに毎日付き合わされる身にもなってほしいというのは到底無理な願いだといい加減知った二年目の春。あいにくうちの部署には新人なんて配属されず五年先輩の矢神さんにとっては念願の後輩だった僕だが、愛情の裏返しだとは本人曰く、意味深これ深すぎて反対側に貫通するほどの可愛がりを受けている。他部署の矢神さんをよく知る人どころか同期にまで矢神の下なんて可哀想にと哀れまれるほどこの女の性質タチの悪さは轟いている。

 今の仕事は僕にとっても第一志望だった。それは十代からの夢で、だから必死こいていい大学に入ってそれからも傍目をふらずになんとかこぎつけた理想郷のはずだった。はじめから矢神さんが上司だと知っていたらどうだっただろうか僕よ。

「矢神さん、そろそろ来ますよ。大丈夫すかマジで」

「うっぷ キスしてくれたら落ち着く」

「もう息がくっせえすわ。勘弁してくださいよ。もう二年っすよ。矢神さん五年やってんだから慣れてくださいよ」

「怖いもんは怖いでしょ! ボエーー」

 酔わなきゃやってらんない。それはよく分かる。小さい頃、夜中にトイレに行きたくなるとあの真っ暗な廊下を進んでかなきゃなんないのが嫌だった。僕らの仕事はそういうのに似ている。奴らは夜の薄暗い影からやってくる。

「来ましたよ、先輩」

「キスしてくんないの。もう二年なのに」

「構えろッ矢神」

「ねぇ! 今呼び捨てした! 先輩だよアタシ!」

「死んじまうだろが! しゃんとして!」

 妖怪? 化け物? なんだっていいけどなんだかよくわからない、とりあえず僕たちにとっては有害で生活を脅かすほどのそれを人は「ヨル」と呼んだ。誰かが駆除しなきゃならなくて、だもんでうちの部署が組織された。あの日、僕がトイレを我慢してたら親父も御袋も僕を庇って奴らにやられたりしなかったかもしれない。おかげさんで黒に立ち向かう時はいつもちびりそうになる。そんな時、そんな時だけはこのどうしようもない酔っ払い女が頼もしく思える。対黒特化拳銃南武六〇式、通称"テラス"。それを構える彼女の目つきは猟犬で確実に黒の急所を捉える。誰も敵わない。

「はい終わり〜 やだ! もう終電ないじゃん」

「いつもでしょ。車、裏のパーキング停めてますから」

「飲んじゃってる!」

「僕、烏龍茶、いっつも!」

「今度はプラベで行こうね太郎ちゃん」

「早く帰って寝ろ!」

「あー! また先輩に向かって!」

 わりと平穏。過去にはいろいろあった僕もなんやかんやで今そう思えるようになったのには矢神叶子の存在がでっかいのかも知れない。各部署からの哀れみのお便りに対して僕はいつもこう返す。そうでもないっすよ。

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変わったお仕事 川谷パルテノン @pefnk

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