去りし日の彼ら

ひたすら少女の後をついて行くと、気付けば霧が辺りに立ち込めていた。

「そろそろよ」

と彼女が言うので、気を引き締める。

「ところで、今から行く場所なのだけれど。

…あそこは、言わば、"思念の墓場"といった感じの場所で、魂の"記憶"ではなく、"感情"や"念"といったもの、つまり浄化した際に本来なら消えるはずのもの達が、消えきれず残っている場所なの。人の感情というのは、プラスの感情よりも、マイナスの感情の方が強く残りやすくてね、…なんというか、負の感情が立ち込めているのよ。あそこにはそういうものを集めてしまう性質があるの」

と彼女はこちらに目をやりつつ、正直気が乗らなそうに行き先について説明した。

それを聞きながら、しばらく歩くと、少し先に薄暗い森がうっすらと見えた。

「ここね。…心の準備はできてる?」

彼女は手を差し出しながらそう言った。

「ああ」

そう答え、彼女の手を繋いだ。

「…さあ、行くわよ」


森の中は、さっきまでよりさらに霧が濃く、5メートル先も見えない程だった。

しかも、なんだか足も重いように感じる。

霧の中から、声のような音がひそひそと聞こえてきて、気味が悪い。

「…なあ、それで手掛かりって」

尋ねると、

「確か、こっちの方だったと思うのだけれど…」

となんだか頼りない答えが返ってきて、不安がさらに広がった。

「クルシイ」「タスケテ」「ツライ」「イタイヨ」

そんな声が四方から聞こえる。

いきなり耳元で声が聞こえ、驚いて目を瞑りかけると、少女が手を強くにぎってきて、

「目を瞑らないで。私の方をずっと見てて。あれは弱さにつけ込んでくるから」

と、振り向かずに言った。

しかし、彼女の手は震えていた。

そこではっと気付いた。彼女も怖いのだ。

しかし、それを表に出さないよう、

気丈に振る舞っていただけなのだ。

そう思うと、なんと自分は情けないのだろう。

まだ見た目だけなら10歳くらいの少女に、こんな風に縋る自分がなんともかっこ悪いように感じた。

視線を先の方にスッと見据え、手を強く握り返した。

「…ごめんなさい、私がここに手掛かりがあるって言い出したのに」

そう申し訳なさそうに彼女は言う。

違う。それでも行きたいと言ったのは自分だ。

「…ありがとう」

呟くように少女は言った。

しばらく歩くと、彼女は急に立ち止まり、

「…向こうだわ。向こうから聞こえる。あなたを呼んでるわ」

と方向感覚をすっかり失った森の先を指差した。

その指差す先から、確かに声が聞こえる。

辺りのぼそぼそと呟くような声ではなく、はっきりと、こちらを呼んでいるように聞こえる。

「行きましょう」

声のする方へ近付いていくと、だんだんその声が、はっきりと誰かの名前を呼んでいることが分かった。

「…ぅすけ、ソウスケ!」

そして今はっきりと、「ソウスケ」と言う名前を呼んだのを聞いた。

その瞬間、思わず俺は、

「…ケイタ!!」

と叫んだ。

「だめっ!手を離さないで!!」

そのまま走り出しそうになるのを、彼女が必死に止めた。

だが、その制止する声も、強く握る手も張り切って、声の方へ体は向かった。

しかし、少女の手を離れた瞬間、視界が真っ暗になり、気持ち悪い程の声、沢山の悲鳴に、ごぼごぼといった鈍い水の音が聞こえてきた。

「ケイタ!ケイタっ…!!」

何も見えない。どこにいるかも分からない。

ただ何も無い闇の中に溺れていた。

息が苦しい。誰か、助けて。

そんな声が、頭を渦巻く。

───水が入ってきたぞ!! 

──ママぁ怖いよお…

───子供だけでも頼む…! 

──あなたっ!!

沢山の声が流れ込んできた。

「あ、ああ、あ」

おかしくなりそうなほど悲痛な声たちが頭の中で響き渡り、自分が自分でなくなりそうだった。

───宗介、お前だけでも、助かっていてくれよ…!


ふと、そんな声が聞こえ、ふっ、とさっきまで聞こえていた声達が聞こえなくなった。

「…ケイタ?」

暗闇の先に、ふと白い影のようなものが見える。

ゆらゆらと少し揺れている。

影は、段々とこちらへ近付いてきて、そっと俺を抱きしめた。

すると、すーっと辺りを纏っていた闇が引いていき、気が付けばあの森の中にいた。

「あ…」

「…!! 気が付いた?」

隣で少女がひどく心配した顔をして顔を覗き込んできた。

「…!ケイタは?」

はっ、と振り向くと、そこにはさっきの白い影が、辺りのもやを纏って立っていた。

「ケイタ…!!」

影に向かって叫ぶ。

影は少し揺らいで、ほのかに白さを増した。

「ソウスケ…」

一瞬、顔のようなものが見えた。

「…っやっぱりケイタなんだな!?」

そう尋ねると、ゆっくりと影は頷いた。

「っ…!」

思わず、涙が溢れそうになる。

「…やっぱり…生きてたんだな」

ケイタはぼそっと呟いた。

ちらと見える彼の顔もまた、今にも泣き出しそうだった。

「…あの日、俺は、俺達は、学校の中で、あの波に襲われて、…それで、悟ったんだ。もう助からないって。だからあのとき、せめてお前だけでも助かっていてくれって、願った」

ゆっくりと、空間のあちこちから、ケイタの声が響いてくる。

「だから…本当に良かった。ソウスケ、ちゃんと大人になれたんだな」

そう言われて初めて、彼がまだあの時と変わらず子供の姿であることに気がついた。

「…ああ」

そして、泉に映っていた、自分の姿を思い出す。

俺は、確かに大人だった。

少しごつごつした、自分の手に、がっしりとした体。

それを考えると、目の前に見える彼は、ひどくひょろりとして頼りなく、幼く見えた。

だが…かつての俺もそうだった。

ケイタや他の友達と同様に、今よりも少し痩せていて、細くてまだ日焼けしたままの腕は、汗と共に光っていた。

遠い、あの頃を思い出す。

まだ世界を何も知らない、ただの子供同士、自分達なりの小さな世界で必死に生きていた。

ひどく輝かしく、眩しかったあの日々は、もう戻っては来ないのだろう。

薄汚れた、自分の手を見て苦しくなった。


「…本当は、大人になんて、ならない方が良かったよ」

つい、そんな言葉が口から出てしまった。

それを聞いて、ケイタは悲しそうな顔をした。

それでも、言わずにはいられなかった。

「お前らのことを考える時、いつもこんなこと思ってた。なんで俺だけ、こんなに大きくなってんだろうなって。歳を取るごとに、段々、あの頃の思い出すらも薄れていってさ、何やってんだろ、俺、って。時々、あの時みんなと一緒にいれば良かったのになんて思うことだってあった。…ほんとに、時間ってやつを恨んだよ」

どこからともなく、こんな感情や、記憶が、とめどなく溢れ出して、止められなくなった。

一人熱くなり、思い出すまま話すのを、誰も止めはしなかった。


ひとしきり喋り、少し冷静になって、周りを見回すと、心なしか、霧が濃くなったように感じた。

黙って聞いていたケイタは、ひとつ

「そっか。…ソウスケも、やっぱり辛かったんだな。やっぱ、俺って子供だったな。…ごめん」

と謝った。

違う、そんなつもりじゃない。そう言い直そうとしたが、彼は続けて、

「でも…話してくれてありがとう。お前の辛さ、少しでも吐き出せたなら良かった。お前の気持ちは、俺が持ってくよ。みんなと一緒に」

と、少し寂しげに、微笑んでそう言った。

そして、急に改まったように、

「…俺は、まだお前に伝えてない事がある。でも、それはきっと、この先でお前を待ってる人がきっと教えてくれるだろう」

と言った。

「…俺を、待つ人」

彼は後ろを振り返り、森の奥を指差した。

「"彼女"は、ずっとお前を待ってる。…早く行ってやれ」

彼はそう言って、こっちを見ながら少し微笑んだ。

そして、だんだんと彼の輪郭はぼやけていった。

「ま、待てよ、ケイタ!」

優しい微笑みをたたえた顔は、もう随分とぼやけていた。

「お前にもう一度会えて良かった」

ふと見ると、彼の周りには、他にも沢山の人の影があった。

「皆…」

「全部連れてくよ。みんなお前を心配してたんだ。でも、もう大丈夫って分かったから」

その影もろとも、みな薄くぼやけていく。

「時間は確かに、日々を変えていく。でも、決して刻んだ時間は消えないから。こうして、ここに雪のように積もっていくから。だから心配すんな。お前が忘れたとしても、記憶はお前の中に、この世界に、ちゃんとあるよ」

まるで俺を安心させようとするように、彼は言った。

そして俺の隣にいた少女に向かって、

「…"てんし"さん、ありがとう。こいつをここに連れて来てくれて」

と言った。

"てんし"と呼ばれた彼女は、どう反応していいか分からず、少し目を逸らした。

「さあ、行け。"彼女"はこの先で待ってる」

もはやただの霞となった「そこ」から、彼の声が響く。

「またな」

その一言が、凛と森の中に響いて、森の霧は彼とともに晴れ上がった。

風が彼の跡を消すように吹いた。


「…浄化、出来たみたいね」

少女が、そっと言った。

…俺は、黙った。

「さあ、行きましょ。"その人"が待ってるんでしょう?」

彼女が手を差し出し言った。

俺は一つ息を吐いて、

「ああ」

と言い、差し出されたその手を、もう一度、強く握った。

そして俺たちは、森の先へ歩き出した。

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