終章⑤
婦人服部を出る頃には昼を過ぎていた。
證は一寸考えて、芽衣胡に優しく問う。
「上の大食堂と、太陽軒どちらに行きたい?」
「え? 太陽軒?」
太陽軒の名を聞いて、目を輝かせる芽衣胡を見た證の頬が緩む。
「ふっ、太陽軒に行くか」
證の微笑に芽衣胡の胸がトンと弾んだ。眼鏡を掛けたお蔭で近くにいる證の表情が分かることに少しだけ困ってしまう。
そんな芽衣胡の表情を見て、證は嬉しそうにしながら芽衣胡の手を丁寧に取ると「行こう」と外に連れ出した。
菱越百貨店を出て自動車に乗ると證が尋ねる。
「太陽軒で何が食べたいのだ?」
「あのう、……オムレツライスです」
「ああ」
眼鏡を掛けたので、一人でオムレツライスに挑戦したいという事だろうと證は思った。
「證様は何をお召し上がりになりますか?」
「ん? 私か? そうだな……、あなたと同じオムレツライスにしよう」
「同じですね!」
車内で芽衣胡がにこやかだと、證の纏う雰囲気も柔らかくなる。
いつもは夜に訪れる太陽軒も、昼に来ると少し雰囲気が変わって見えた。
理由は店内に入ってすぐに分かる。家族連れが多く、子どもの声があちこちから聞こえるからだ。
「ああ、子どもか? 昼と夜は品書きも変わるし、価格帯も違うからだろうな」
「ではもしかしてオムレツライスは――」
「ある。安心しなさい。オムレツライスは昼も夜も提供されている」
「ああ良かった」
給仕係に席へ案内されると證はすぐに注文する。
しばらくして運ばれてきた料理に芽衣胡は感嘆の声を上げた。
「わあ~」
白い皿の上で黄色に光る山。そこには赤いトマトソースがかかっていて、湯気とともに食欲をそそる匂いが立ち上っている。
スプーンを持った證を見て、芽衣胡もスプーンを持つ。松若家でも少しずつ慣れるようにと、洋食を食べる機会を増やしてもらった。今日こそは優雅にスプーンを操って綺麗に完食しようと、芽衣胡は意気込む。
「いただきます」
スプーンをゆっくりとオムレツの中に沈ませれば、中には橙色のご飯が見えた。ご飯の中にも小さく切られた具が混ぜられているようだが、眼鏡をかけてもその小さな具が何かまでは分からない。
しかし一口食べれば口の中が幸せに包まれる。
「んん~、美味しいです!」
咀嚼している證も芽衣胡の幸せそうな顔を見て、優しい表情になっていた。
スプーンを使う練習をしたお蔭で、スプーンがお皿にカチャカチャと当たる音も静かだ。それに気づいた證の心が温かくなる。
不慣れなことにも挑戦し、障害を乗り越える芽衣胡の強さには尊敬の念が湧く。
それと同時に、目付きが悪いと言われていじけていた自分のなんと情けないことかと恥ずかしくもなる。
「美味しいか?」
「とっても!」
食べる時が一番幸せそうに笑う芽衣胡が愛おしい。
「たまごがとってもふわふわなのに、どうしてご飯をたくさん包めているのか不思議ですね。たまごはどこも破れていないですし」
「あなたがスプーンをうまく使えるようになろうと一生懸命練習したのと同じで、料理人もお客に美味しいと思ってもらえるように修練したのだろう」
「なるほど」
芽衣胡が器用にスプーンを扱って皿の上を綺麗に食べきる。
「一人で食べることが出来たな」
「ふふ」
芽衣胡が満足そうに笑う。
「でも、お腹がはち切れそうです」
「はち切れたら抱えて帰るから安心しなさい」
「それは恥ずかしいです……」
證がふっと笑うと、芽衣胡も肩を上げて笑った。
食事を終えたのを見計らったように給仕が珈琲とオレンジジュースを運んでくる。
「頼んでいないが?」
「オーナーからでございます」
「谷川さんが?」
その時、丁度良く奥から谷川が現れた。
「谷川さん」
「證くんと華奈恋さん」
芽衣胡と證が揃って「あっ」と漏らす。
「どうかしましたか?」
「ああ、あの。実は妻の名前が」
谷川の視線が芽衣胡に向く。芽衣胡は会釈すると胸を張って微笑んだ。
「芽衣胡と申します」
「芽衣胡さんでしたか! お名前を間違えてしまったようですね」
「いえ違うのです。確かに以前は華奈恋と」
「妻の双子の姉が華奈恋というのですが――」
「お家の事情があるのでしょう? 多くは聞きませんので」
谷川は心得たとばかりに頬を上げる。
「よろしければ甘味をご用意いたしましょう」
證は芽衣胡を見る。芽衣胡の顔には『食べたいけどもう食べられない』と書いてある。
「せっかくですが、また次の機会に」
「さようですか。ではまたお越しくださいね」
「あの、谷川さん。料理長さんにとても美味しかったですとお礼を伝えていただけますか?」
「もったいないお言葉を頂戴し、料理長たちも喜びます。こちらこそありがとうございました」
「ご馳走様でした。また近いうちに来ます」
「はい、お待ちしております」
谷川は證との付き合いはそこそこ長い方だと思うが、このように雰囲気の柔らかい證を見るのは初めてだと思った。それにあの仏頂面だった男が、穏やかに微笑んでいるのを見ることが出来て、谷川も嬉しくなるのであった。
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