終章③

「芽衣胡様」

「なあにタネ?」


 松若邸の離れで暮らす芽衣胡を呼ぶのは、女中のタネであった。

 芽衣胡も小柄だが、タネも小柄。


 しかし芽衣胡のように骨が浮き出るほど細くはない。女性らしい肉付きはある。二十六歳だと言うが幼い顔立ちのせいで十八歳ほどにしか見えない。


「お召し物ですが、五日前にお召しになられたものしか、ないのでしょうか?」

 首を傾げるタネの前で、《眼鏡|がんきょう》を掛けている芽衣胡も同様に首を傾げた。


「ええと、華奈恋のお下がりの着物が三枚に、證様が仕立ててくださった洋服が二枚?」

 芽衣胡は数えながら右手の指をひとつずつ折っていく。親指を内側にして、小さな拳ができた。


「少ないな、とは思っておりましたが、まさか……」

 タネは口を開いたまま固まってしまう。


「仕方ないよね。洋服は華奈恋が持って帰ってしまったから。わたしは昨日の着物でもいいわよ」

「なりません!」

 芽衣胡はそのやり取りに既視感を覚えた。


 伊津が懐かしい。伊津のことを思い出した芽衣胡は頬の力を緩める。


 伊津は華奈恋付きに戻ったため、芽衣胡にはタネが付くこととなった。始めは上手くやっていけるかと心配していた芽衣胡だが、なかなかタネも上手く対応してくれるので心配する必要もなかった。


 芽衣胡の耳が廊下を歩く足音を拾う。

「證様だわ。タネ襖を開けて」


「承知いたしました」

 タネが襖を静かに開くと三歩向こうに證がいた。


「どうした、まだ寝巻のままか?」


「證様」

「どうした、タネ?」


「恐れながら申し上げさせていただきます。芽衣胡様のお召し物が少なく、着替えに困っておりました。どうか芽衣胡様にお召し物を仕立ててはいただけないでしょうか」

 タネが頭を下げるのを見て、證は芽衣胡に目をやる。


「芽衣胡、着るものがないのか?」

「いえ、あります」


「そうか。タネ」

「はい」


「何着仕立てれば当面大丈夫だろうか?」

「少なくとも五着」


「五!?」

 芽衣胡が目を丸くするが、誰も取り合わない。


「仕立てていただけるのであれば十着は必要にございます。芽衣胡様は洋服が気楽なようでございますので、そちらを多めに仕立てていただければと」

「分かった。しかしすぐには難しいな」


「十も……」


「仕立て上がるまでは古着で代用されてはいかがでしょうか?」

「古着か」


 古着と言っても襤褸ばかりではないことをタネも證も知っている。一、二回袖を通しただけで不要になり古着屋に並べられているものもあるのだ。


「ではタネ、古着屋から芽衣胡に合うものを探してきてくれるか?」

「承知いたしました」


「若い衆を一人連れて行きなさい」

 證はタネにお金を渡す。


「では、本日は仕方なく五日前と同じお召し物で我慢してくださいませ」

「ああ。では芽衣胡は支度ができたら玄関に来なさい。早速出かけよう」


「分かりました……」

 今日はもともと出かける予定だったが、別の用事が増えそうだと芽衣胡は思った。


「タネには余計な仕事を増やして申し訳ないわ」

「いいえ、余計な仕事ではございません。それよりもわたしが勝手に選んでもよろしいのでしょうか? お好きな柄や色はございますか?」


 芽衣胡は首を横に振る。


「着るものについてはよく分からないから、タネに任せるわ」

「では、芽衣胡様に一等似合う着物を探して参りますね」


「よろしくお願いします」

「そうやってすぐに使用人に頭を下げないでくださいませ。……でもそこが芽衣胡様の良いところだとも思いますが」


 タネが随分芽衣胡を可愛がってくれているのは芽衣胡も感じている。


 二人で他愛のない話をしながら洋装に着替えて、薄く化粧を施せば支度が完了する。

 赤い口紅は眼鏡よりもはっきり存在を主張している。その色を選んだのはタネだった。眼鏡を掛けることで増す、芽衣胡の野暮ったさを隠すためにタネは芽衣胡の可憐な唇に赤い花を咲かせることにしたのだ。髪も結い上げてレースのリボンで飾ればモダンガールの出来上がり。


 タネとともに本邸の玄関に向かえば證と榎木が待っていた。


「西洋人形かと思ったら、これは芽衣胡様ではないですか~」

「タネが頑張ってくれたお蔭です」

「では行こうか」


「いってらっしゃいませ。お出かけを楽しんでいらしてくださいね」

「行ってきます。タネも気を付けて買い物に出かけてね」

「はい」


 タネに見送られて自動車に乗る。運転は榎木。後部席に證とともに座ると芽衣胡は横から視線を感じた。


「證様?」

「なんだその、……愛らしいと思った……」

「何がですか?」

「……あなたが」


 芽衣胡は自分が可愛いと言われているのだと分かって頬が熱くなる。


「はいはーい、ここに榎木もいますよ~。出発しま~す」


 今日は最初に眼鏡屋に行くことになっている。店主が調整したいから連れて来いとうるさいのだと、證から聞かされたのは二日前のこと。


「眼鏡をかけてどこまで見えるようになったのだ?」

 ずっと気になっていたのだろう質問を、證が車の中で問う。


「ええと、證様のお顔がここからだと、肌色に黒いものが二つあるな程度だったのですが、今は眼鏡のお蔭で鼻と唇があるのが分かります」

「というと、前は目しか分からなかったというのか?」


「そうですね。あっ、あと髪の毛も分かりましたよ。でも残念ながら白髪の方は白髪なのか禿頭なのか判別がつきませんでした。今は十分に近づくと何となく見えます」

「そうか。だが白髪なのか禿頭なのか判断するために無闇に近づくことはしてはならないからな?」


「ええ、分かっております。お相手の方に失礼ですものね」

「いや、そういう理由ではなく……」


「ん?」

「芽衣胡様、證様はですね、芽衣胡様に無闇に殿方に近づくなと言いたいんですよ」


「なっ、榎木」

「殿方に近づいてはならないのですか? 申し訳ございません」


 そう謝って芽衣胡は、隣に座る證から距離を取るようにお尻の位置を動かした。しかし狭い車内で大きく距離は開かない。

 芽衣胡は證を不快にさせまいと、扉にぴたりと身を寄せる。


「芽衣胡、どうしてそちらに行く?」

「殿方に近づいてはならないと――」


 榎木が盛大に吹き出した。

 證は右手で目元を覆うと大きく息を吐き出す。

 また何か間違えてしまったのだろうと芽衣胡は悟った。


「その『殿方』に、私を含める必要はない。ただし榎木は含めてよいからな」

「そうなのですか?」

「ああ」


 ひどいと訴える榎木を無視して、證は芽衣胡の腰に腕を回して引き寄せる。


「私の側にだけいたらいい。私の側から離れないでくれ、……二度と」

 最後の一言が重く響いた芽衣胡の胸が痛くなる。


「はい。離れません」

 證の指先の力が強くなるのを芽衣胡はお腹の横で感じた。


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