終章

終章①

「ねえ伊津、あれを出して?」


 万里小路邸の一室――華奈恋の自室に鈴のような声が響く。


「あれですか?」

 姿見の前で身支度をする華奈恋の隣には伊津が立っている。


「あなた、芽衣胡に付いていたから鈍くなったのではなくて?」

「まさか! 華奈恋お嬢様のことはこの伊津が一番理解しております。薔薇の耳飾りでしょう?」

 伊津が得意気に答えるので、華奈恋は嬉しそうに口角を上げた。


「なあに、分かっていたのね」

「今お出ししますのでお待ちくださいませ」


 わたしが仕えるお嬢様はこうでないと! ――と心が弾んだ伊津は微笑んだ。申し訳なさそうにする芽衣胡に仕えるのも楽しかったが、華奈恋の気持ちを把握できるのは自分以外にいないと自負している。


「でも芽衣胡から伊津を引き離して良かったのかしら?」

 華奈恋が人差し指を可愛らしく顎に添えて小首を傾げる。


「あら、華奈恋お嬢様が殊勝なことを」

「だってあの子、目が悪い上に、作法もなっていないのでしょう?」


「そのようなことはありませんよ。それに芽衣胡様の側には松若家のことを熟知した女中が側におりますから」

「そう? わたくしは伊津が戻ってくれて嬉しいから別にいいのだけれど……」


「ふふふ。ありがとうございます、華奈恋お嬢様。さあ、耳飾りをお付けしました。いかがですか?」


 華奈恋は姿見に自身を映すと満足そうに頷く。

「いいわね。では行きましょう」

「はい」


 華奈恋は伊津を伴って自動車に乗った。

「伏見生花店に行くわ」


「承知いたしました」

 運転手に行き先を伝えると自動車がゆっくり走り出した。


 伏見生花店までは自動車で二十分ほどかかる。

 到着すると運転手が後部扉を開けた。


「家に戻っていいわ」

「お迎えは何時にいたしましょう?」

「二時間後にして」


 運転手が懐中時計で時刻を確認する。

「承知いたしました」


 運転手が頭を下げる横を通って華奈恋は生花店に向かう。

 華奈恋は生花店の手前で一度足を止め、ある人物を探した。その人物を認めた華奈恋は振りかえって伊津を見る。


「おかしなところはない?」

 華奈恋は自分の艶やかな髪を撫で、それからスカートの裾が翻っていないか確認している。


「どこもおかしなところはございませんよ。すれ違う誰もが華奈恋お嬢様の美しさに見惚れてしまうことでしょう」

「誰も、ではなくて、ただ一人の方にそう思っていただきたいのだけれど……」


「きっとその一人の方も見惚れてくださいますよ。自信をお持ちくださいませ」

 華奈恋は伊津に向かって頷くともう一度生花店に目を向けた。


 店先まで歩み寄るとそこにいた男性がこちらに気付く。

「おや、華奈恋さん。こんにちは」

「こんにちは、武満さん」


 楚々とした雰囲気を纏える華奈恋を見た伊津は、さすが侯爵令嬢として育っただけのことはあると改めて気付かされる。


「今日はどうされたんです? 花をお求めで?」

「はい……。お花を」


「ご連絡いただければお届けしたのに。……それで、どの花にいたしましょうか」

「武満さんの好きなお花でお願いいたします」


「僕の好きな花でいいんですか?」

「はい……」

 恥ずかしそうな顔をする華奈恋を見て、伊津は恋する乙女だと思った。


「ではこちらの花に」

 武満は赤い花を手に取る。


「薔薇ですか?」

「ええ。最近、薔薇を好きになったんです。薔薇を見るとある女性が浮かぶんですよ」


「ある女性ですか? それはどなたです?」

 華奈恋の声が小さくなる。


「知りたいです?」

「教えてくださるのですか?」


「内緒です」

「内緒だなんて酷いです。気になりますわ……」


「気にしてくださるなんて光栄ですね。さあどうぞ。赤い薔薇は華奈恋さんの今日の装いに合うでしょう?」

 武満の視線が華奈恋の耳飾りに向いている。華奈恋は薔薇を両手で受け取ると耳が熱くなるのを感じた。


「華奈恋さん、この後も予定があるのなら薔薇は家に届けておきましょうか?」

「あのう、ご迷惑でなければもう少しお店の中にいてもよろしいでしょうか?」

「え?」


 武満は華奈恋から伊津に視線を移す。

 伊津は面白そうに微笑んで大きく頷いてみせた。


「では、お茶でも用意しましょうか」

 武満はそう言って店の奥に入っていく。


 しかしすぐに戻ってきた武満は手ぶらで、その手で頭をぽりぽり掻いていた。

「ええと、華奈恋さん」


「お店にいるのがご迷惑でしたら外に出ますわ」

「いえ、そうじゃなくて……。僕と一緒に外を歩きませんか?」


「でもお店を空けてよろしいのです?」

「母が店のことはいいから出てこいと……」


「やはりわたくしがいてはお店にご迷惑ですよね」

「ああ、そうではなくて、母が逢瀬でも行ってこいと……」


「お、逢瀬――!?」


 華奈恋はパチパチと大きな目をしばたいた。


「僕との逢瀬は嫌ですか?」

「嫌なわけありませんわ!」


 これでは武満に好意を伝えているようなものだと思った華奈恋は恥ずかしくなる。左手で頬を押さえると熱くなっていた。


「と、とりあえず外に出ましょうか」

「はい」


 外に出た二人の数歩後ろを伊津がついて行く。

 生花店の隣には書店、その向こうには小間物屋が並んでいる。


「あの、武満さん」

「はい?」

 妙な緊張に包まれる二人の後ろで伊津だけはにこやかだった。


「その、千里小路のおじい様のこと……」

「ああ。その節は華奈恋さんにも、双子の妹さんにもご迷惑をお掛けしました。申し訳ありません」


「武満さんが謝る必要などありません。それに、そうではなくて、父が勝手に処断したと聞いて、それが――」

「それこそ華奈恋さんが申し訳なく思わなくていいんですよ。僕はおじいさまのことは好きでしたが、人に害を加えるような人だったなんて……。おじいさまがあんなに深い闇を抱えていたなんて全然知らなかった。怪我がなかったとはいえ危ない目に合わせて申し訳ございません」


「怪我……しています」

「え? どこですか!?」


「ここですよ」

 華奈恋は武満の右手を取る。

 包帯は取れたのだろうが、横一文字の傷が手の平に残っていた。


「これは僕の……」

「無茶なことをされないでください。わたくしが悲しくなります」


「心配してくださるのですか?」

「当たり前ですわ。だって――」


「だって?」

 華奈恋はそれ以上、言葉を発せなくなったかのように口ごもる。


「そうだ、もう少し出かけませんか?」

 華奈恋は首を傾げた。


「車を出しますから乗ってください」

「遠出するということでしょうか?」


「そこまで遠くはありませんよ。五分少々で着きます。時間がありませんか?」

「いえ、時間はまだあります」


「では行きましょう」

 踵を返して三人は伏見生花店の裏手へまわり自動車に乗る。


「武満さんが運転されるのですか?」

「はい。では出発します」


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