19.證と華奈恋④

「そう言わないでくださいよ〜」

 緊張する前の腰の低い華奈恋に戻ってくれ、と榎木は心の中で悪態をつく。


 しおらしい所が可愛かったのに、今は可愛げなどどこにも見えない。

 使用人である榎木にも優しく接してくれた華奈恋はどこに、と首を傾げる。


「な〜んか、人が変わったみたいですよね〜」

 面と向かって言えない榎木は扉に話し掛けるようにそうこぼす。


 しかし華奈恋はその言葉に心臓が跳ねる。

「人が?」

「変わりました、変わりました!」


 榎木は半ばヤケクソにそう言う。

 これ以上華奈恋のご機嫌をとって顔色を伺うひまなどないのだ。


「どういう風に代わったと思うの?」

「えっ? 聞くんですか? ……正反対ですよ」


 正反対という言葉に華奈恋は緊張する。

 このままでは入れ代わったことが早々に判明してしまう。華奈恋は華奈恋として振る舞ってはいけないのだとそこで初めて気付いた。


 芽衣胡のように、と芽衣胡の態度を思い出す。しかし思い出せるほどの接点がないため、華奈恋が芽衣胡を演じるのは難しい。だが芽衣胡になりきれるよう努力しようと思った。

 芽衣胡ならこのような時に何を言うだろうと華奈恋は考える。


「ごめんなさい、榎木」

 まずは自分の振る舞いを謝罪してみる。普段の華奈恋ならば使用人に謝ることなどしない。

 それを見た榎木は、まさかこの華奈恋から謝罪の言葉が出て来るとは思わず驚いて目と口を開けた。


「えっ、いや、……いやいやいや」

「ダンスは一曲でいいかしら?」


「いいのですか!? はい、一曲踊っていただければ十分ですよ! 證様に伝えて来ます! あっ、もう少し休んでいてください、またお迎えに参ります」


 榎木が出て行くと、華奈恋は大きくため息を吐いた。

 胸の苦しさは変わらず肺に入る空気も少ない。


 ――あと一曲。一曲の辛抱よ。


 水を飲みながら呼吸を整える。

 しかし、さらしによって胸が苦しいのか、華奈恋が『華奈恋』として存在するのになぜか芽衣胡として振る舞わなければならない状況が苦しいのか、華奈恋には分からなかった。



 ダンスは一曲が限界だった。


 腰を支える證の手は生理的に受け付けられないようで華奈恋は早く離れたくて仕方なかった。

 だがダンスの優美さは身に叩き込まれており、周りから称賛の声が上がっていたが、華奈恋の耳にはそれを拾うことはなかった。


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