第23話 汗の意味(※三人称)

 昨日の夜は、思いだしたくない。森口の話に苛立って、緑川に「付き合え」と言ってしまった。馴染みの飲み屋に彼を誘って、彼にこれまでの不満をぶちまけてしまったのである。彼は体が温まるまで酒を呷ると、テーブルの上にジョッキを置いて、目の前の同僚を睨んだ。同僚は、彼の醜態に呆れている。「あんだよ? あんか、もんふでもあんのか?」


  呂律も、回っていない。これは、相当に出来上がっていた。が、同僚は「それ」を咎めない。寧ろ、面白そうに眺めている。彼の醜態に自分を写して、それに冷笑を浮かべていた。緑川は自分の頼んだワインを啜って、つまみのローストビーフにフォークを刺した。「文句は、無いよ? ただ、『下らないな』と思って。既に決まってしまった事を」

 

 赤羽はまた、彼の言葉に噛みついた。頭がガンガンしている中で、その一撃がかなり重かったからである。彼は店のお給仕さんに「おかわり」を頼むと、自分の頼んだ砂肝を囓って、同僚の顔をまた睨みつけた。「お前は、良いのかよ?」

 

 その答えは沈黙、それも不快を浮かべた沈黙だった。


「アイツの言いようにされてさ? 俺もお前も、迷宮の中に入ったんだぞ? 組織の連中から生贄扱いされて。俺達は」


「駒、だよ。『組織』と言う物に入っている限り、その事実は返られないんだ。僕達は『組織』と言う枠組みの中で、『駒』と言う役割を与えられている。事務次官の肩書きがある人ですら」


「その例外じゃない?」


「うん。と言うか」


「なんだよ?」


「それは、君が一番に分かっているだろう? が」


 赤羽は、その言葉に押しだまった。「安定」と言う言葉を聞いて、それに不快感を覚えたからである。彼はテーブルの上にビールが運ばれてもなお、沈鬱な顔でつまみの皿を眺めつづけた。


「緑川」


「うん?」


「俺、迷宮の中で怪物を倒した」


「聞いたよ。


「怪物の脳天を撃った、自分でも信じられないけど」


 赤羽は、ジョッキの中身を減らした。中身のビールを飲み干すように。「人間には、無理だ。今はどうにかなっても、いつか手に負えなくなる」


 緑川も、それに「だね」とうなずいた。「僕も、そう思う。あの人は、急ぎすぎだ。僅かな可能性に期待を持ちすぎている。それが、どんなに危ない事であっても。彼には、事態の全容が分かっていないんだ。現実は、『特撮のようには行かない』って」


 緑川は右手の人差し指で、グラスの縁をなぞった。そうする事で、自分の頭を働かせるように。


「だが」


「うん?」


「その認識も、すぐに改まるだろう。あの中に入ってみれば」


 赤羽は、その言葉に黙った。緑川も、それに倣った。二人は賑わう店の中で、それと似つかない沈黙を保った。が、赤羽が「それ」を破った。店の空気に当てられて、沈黙に耐えられなくなったらしい。


 赤羽は残りのビールを飲み干すと、近くの店員に「焼きキャベツ」を頼んで、目の前の同僚にまた視線を戻した。


「緑川」


「うん?」


「死人を出すのは、正義か?」


 その答えは、沈黙。


「戦場で死ぬのは、名誉か?」


 その答えも、沈黙。


「真実から逃げるのは、勇気か?」


 その答えは、「分からない」だった。今までの質問に答えるように。「でも、これだけは言える。僕達は、守られる側だ。『豊樹』と言う冒険者の力に。僕達は彼の協力者であって、その戦力ではない。そこは、間違っちゃいけないよ。僕達の仕事は、彼の仕事について行く事だ」


 赤羽は、その言葉に立ち上がった。彼との会話を止めたい事もあったが、それ以上に「来る物」があったらしい。緑川から「大丈夫かい?」と訊かれた時も、それに「今日は、ありがとう」と答えただけで、彼の意見に「言いかえそう」とはしなかった。赤羽は二人分の飲み代を払って、店の中から出て行った。「くそっ」


 くそっ、くそっ、くそっ! 「俺はただの役立たず、か? たった一匹の怪物を殺しただけで」


 赤羽は自分の中に両手を入れて、町の夜道を歩きだそうとしたが。そうしようとした瞬間にスマホのバイブが鳴ってしまった。彼はポケットの中からスマホを取りだして、スマホの画面に目をやった。スマホの画面には、「母」の字が映されている。「お袋?」


 そう呟いた瞬間にはもう、スマホの通話ボタンを押していた。こんな時間に一体、なんだろう? ここ一年、まともに連絡すらしなかったのに? 「もしもし?」


 それに「もしもし?」と返す、声。この妙に訛った声は、間違いなく母の声だった。彼女は例の件に不安がっていたようで、彼に連絡を入れたようである。「なんか、大変な事になっているみたいだけど。そっちの方は、大丈夫なのかい?」


 大丈夫ではない。そう言いかえせたら、どんなによかったか? 彼は自分の立場も考えて、母には「余計な事は言わないぞ」とうなずいた。


「大丈夫だよ、普通にやっている。普通すぎて、怖いくらいに」


「そう、ならいいんだけど」


「ああ……」


 そこから先は、何も言えなかった。変な事を言えば、「ボロが出る」と思ったからである。赤羽は周りの音をしばらく聞いて、談話の母に「切るぞ?」と言った。「明日も、仕事だからさ」


 母は、それに「分かった」と応えた。受話器の向こうから聞える音で、息子が外に居る事を察したらしい。息子の「それじゃ」に応えて、彼女も「じゃあね」と言った。母はスマホの通話を切って、その画面を消した。


 赤羽は、その気配を感じた。夫との会話に寂しさを感じる中で、「息子と話したい」と思った母の心境を察した。彼はポケットの中にスマホを入れて、夜の町をまた歩きはじめた。それに合わせて、緑川も自分のワインを啜った。彼の奢りになった事で、飲みの勢いを抑えたようである。


 店のお給仕さんから「何か頼みますか?」と訊かれた時も、それに「大丈夫です」と答えた。彼は最後のローストビーフを囓って、口の中にワインを流しこんだ。「協力者、か。確かにそうだろうけど」


 やはり悔しい。赤羽の気持ちに乗るわけではないが、彼も彼なりに悔しかった。自分達は、この仕事に命を賭けているのに。勝手な命令を下すのは、いつだって安全な場所に居る奴だ。


「画面の数字しか見ないから、部下にも無茶な命令ができる。書類の文字しか見ないから、世間にも平気で嘘が付ける。『自分達は、汗を流す立場ではない』と。『出世』って言うのは、自分のスーツを汚さない事なんだ」


 緑川は「フッ」と笑って、ワイングラスの中を見た。ワイングラスの中にはもう、一滴のワインも残っていない。透明なグラス越しに店内の様子が見えるだけだ。お通しとして出された吸い物の容器にも、一、二枚のキュウリが残っているだけである。


 緑川は、そのキュウリに苦笑した。……このキュウリは、自分だ。最初に出されて、最後まで食べられない物。あとから出てくるメインまでの繋ぎ。それが今の自分で、これからの自分なのである。「生贄」として出された自分が、出世の道など歩けない。ただ、誰も啜らない泥水を啜るだけである。「迷宮」と言う、牢獄に放りこまれて。自分は……。


「本当についていないな」


 そう唸ったのは、緑川ではなかった。彼の後ろに座っていたサラリーマン、その男性が唸ったのである。彼は仕事の失敗を嘆いているのか、飲み仲間らしい同僚達に自分の不運を語っていた。


「今度も、『行ける』と思ったのに。まさか、断られるなんて。俺は、営業の」


「まあまあ、仕方ないって。相手は、あの新人に惚れ込んでいたようだし。お前が契約を取れなかったのも」


「『不運だ』ってか? 冗談じゃない! あそこは、うちの穴場だったのにさ。それを」


「分かった、分かった。でも、どうして断られたの?」


 サラリーマンは、その質問に「ムスッ」とした。それを訊かれるのが、相当に悔しいらしい。


「『汗だ』ってよ」


「汗?」


、だそうだ。まったく意味分かんねぇよ」


 サラリーマンは「チッ」と毒づいたが、緑川は「それ」に目を見開いた。まるでそう、何かに打たれたように。彼は真剣な顔で、サラリーマン達の会話を聞きつづけた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る