第15話 奉仕の精神(※三人称)

 迷宮の中には、草原が広がっていた。普通ならある筈の壁が、この迷宮には見られない。三百六十度、何処を見わたしても草原しかなかった。


 赤羽は、その光景に冷や汗をかいた。迷宮の素人である彼だが、一応の一般常識(あるいは、知識)は持っていたからである。


 「迷宮」とは、「辺り一面が壁に囲まれた場所である」と。そして、「その僅かにある通路を進んでいく場所である」と。様々な創作物から得た知識で、そう無意識に思っていたが……。

 

 彼は目の前の光景に立ちつくして、隣の冒険者に「これは、どう言う事だ?」と訊く事すらできなかった。豊樹も、彼と同じ疑問を抱いた。彼の知る迷宮もまた、赤羽と同じだったからである。


 。ましてや、辺り一面が草原の迷宮なんて。元冒険者の彼にも、分からない場所だった。豊樹は自分の後ろに赤羽を立たせて、彼に「気を付けろよ」と言った。「ここは、普通じゃない。あらゆる場所に注意を払え」


 赤羽は、その言葉に苛立った。「そんな事は、分かっている」と言う風に。豊樹が迷宮の中を歩きだした時も、自分の装備を確かめてから歩きだした。彼はアクションカメラで迷宮の中を撮りながらも、意識の方は豊樹に、豊樹が伝える周りの景色に意識を向けつづけた。


「おい」


「なんだ?」


「本当に大丈夫なのかよ? この中を進んで?」


「分からない」


 それが、豊樹の答えだった。豊樹は自分の周りを確かめて、自分の後ろを振りかえった。彼の後ろでは、赤羽が顔を歪めている。「だが、進まなければ。今回の被害者達を助けられない。俺達の仕事は何があっても、迷宮の犠牲者を出さない事だ」


 赤羽は、その言葉に黙った。本当は何かを言いかえそうとしたが、寸前のところで「それ」を飲みこんだらしい。彼は不機嫌な、でも複雑な顔で、豊樹の後ろを歩きつづけた。


 豊樹の足が止まったのは、それからすぐの事だった。豊樹にはありえないだろうミス、目の前の空間になぜかぶつかってしまったのである。豊樹は「それ」に驚くと、赤羽の足を制して、自分の鼻を押さえた。

 

 赤羽も、その様子に驚いた。豊樹が感じたかも知れない疑問を自分も感じたからである。赤羽は不安な顔で、豊樹の背中に話しかけた。「ど、どうしたんだよ? 突然」

 

 豊樹は、その質問にしばらく答えなかった。彼もまた、この自体が分かっていないらしい。赤羽からまた「アンタなら分かるじゃないのか?」と訊かれても、それにダンマリを決めていた。


 豊樹は目の前の空間に触れて、それをしばらく撫でると、今度は赤羽の方を振りかえって、彼に「見えない壁だ」と言った。「この迷宮には、見えない壁が巡らされている」

 

 赤羽は、その推理に目を見開いた。見えない壁なんて、普通はありえない。正直、「豊樹の勘違いだ」と思ったが。それもすぐに思いなおしたようだった。ここは、迷宮。現代の常識が通じない場所。


 自分の常識が通じないなら、「こう言う事も充分にありえる」と思ったようである。赤羽は僅かな冷静さを持って、目の前の青年に問いかけた。「どうする?」


 豊樹は、その質問に答えなかった。質問の答え自体は決まっているようだが、それを言う時宜を見はからっているようである。彼は見えない壁に手を付けると、その感覚を手掛かりにして、迷宮の中をまた歩きだした。「迷路の中から抜けだす方法として、こう言う」

 

 手があるのは、分かっている。迷路の壁を伝って行けば、「そのゴールに辿り着ける」と言う物だ。豊樹自身はまだ、それをやった事はないけれど。何かで知った知識によれば、それが現状で「最善」と言える方法だった。


 。彼はそんな風に思って、後ろの青年に振りかえった。後ろの青年は今も、彼の判断に戸惑っている。「ここに居たって、何も変わらない。答えが分からないなら、自分で探しだすんだ」

 

 赤羽は、その言葉に押しだまった。特に「自分で探しだす」の部分、これには妙な葛藤を覚えたらしい。普段の彼ならありえないが、その葛藤に「そうかも知れない」と思ったようである。


 彼は両手の拳をしばらく握ったが、やがて豊樹の後を追いはじめた。「わーたよ! 俺も一緒について行く。それで、気が済むんだろう?」

 

 豊樹は、その言葉に「ニヤリ」とした。彼の言葉が嬉しかった事もあるが、それ以上に呆れてしまったからである。彼は複雑な精神の持ち主だが、それと同じくらいに単純な人間かも知れない。自分の言葉を受けて、それにやる気をだすような。そんな純粋さを持った人間かも知れなかった。


 彼は赤羽の態度に二面性に微笑みながらも、真面目な顔で周りの様子を窺いつづけた。……周りの様子が変わったのは、それからすぐの事だった。壁の向こうに広がっている草原、それが一瞬だけ揺れたように見えたからである。


 後ろの赤羽は「それ」に気づかなかったようだが、豊樹の方は「それ」にふと気づいたようだった。彼は揺れの場所に応じて、後ろの青年に「動くな」と命じた。「

 

 それを聞いた赤羽の顔が強張ったのは、言うまでもないだろう。赤羽は豊樹の指示通り、豊樹が出した防壁の中に隠れて、そこから周りの様子を窺った。「どうだ?」

 

 その答えは、「分からない」だった。「でも、気を緩めるな? 一瞬の油断が、命取りになる。あらゆる気配、あらゆる動きに頭を向けるんだ」

 

 赤羽は、その言葉にうなずいた。そうしなければ、自分は死ぬ。そう本能に内に思ったようである。彼はしんと静まった迷宮の中で、その空気に神経を向けつづけた。「あっ……」


 そう呟いたのが先か? それとも、草原の動きが先か? その答えは、赤羽には分からなかった。草原の中から飛びだした獣、それに剣を抜いた豊樹。豊樹は獣の殺気に振り向くと、愛用の剣を振って、相手の体を切り裂いた。


「なるほど。これは、厄介な仕掛けだ。迷宮の中から怪物が襲ってくる。普通の迷宮なら、ありえない罠だ」


 赤羽は、その言葉に固まった。冒険のプロがそう呟いたせいで、忘れかけていた恐怖を思いだしたらしい。防壁の中で思わず蹲ったのも、今の恐怖から「逃げたい」と思ったからだった。彼は自分の頭を押さえた状態で、外の豊樹に「どうなっている?」と訊いた。「まだ、何かいるか?」


 その答えは、なかなか返ってこなかった。外の様子が分からない赤羽もそうだが、外の様子が分かっている豊樹も迷っているらしい。赤羽が外の様子を窺った時も、彼の方を振りかえられないで、草原の様子をじっと眺めていた。赤羽は「それ」に震えて、防壁の中にまた隠れた。「もう、許してくれ。こんな」


 地獄は、いつ死ぬかも知れない恐怖は。今すぐにでも止めて欲しかった。赤羽は自分の頭を押さえて、自分が死んでしまう事、最悪の未来を考えはじめた。「ちくしょう! 何が安定の職業だよ? あんなに頑張って、面倒な試験も倒したのに。『人並みの生活が送れる』と思ったら!」


「こんなザマか?」と、豊樹。「訳の分からない仕事を押しつけられて? こんなに危ない仕事を押しつけられている。お前自身は、そんな事は望んでいないのに?」


 豊樹は冷静な目で、赤羽の顔に振りかえった。赤羽の顔は、今の言葉に強張っている。


「俺も、同じだ」


「え?」


「正確には、同じだった。地元の高校を出てから、普通の会社で働いていたのに。お神の気紛れで、あんな世界に飛ばされてしまった。『異世界の魔王を倒して欲しい』と、そんな決まり文句を言われて。俺も、自分の運命にガッカリしていた」


 赤羽は、その言葉に表情を変えた。今の話を聞いて、何か感じるところがあったらしい。


「なぁ?」


「うん?」


「アンタは今も、ガッカリしているのか? この仕事を押しつけられて? 向こうの仕事も、ようやく終ったのに? また」


「『ガッカリしていない』と言ったら、嘘になる。嘘になるが、同時にやりがいも感じている。俺も向こうで、色々とあったからな? 自分では『嫌だ』と思っていても、それに信念を感じ……『信念を持てれば』と思っている。『自分のやっている事は、大勢の人を助けている』と、そう内側で思えるように」


「……立派だな。俺には、まず」


 できない。そう言いかけた赤羽だが、豊樹に「そんな事はない」と止められてしまった。赤羽は「それ」に驚いて、豊樹の顔を見つめた。豊樹の顔は、穏やかに微笑んでいる。


「え?」


「この中に入った以上、お前にもできるんだ。自分では、そう思っていなくても。最初の一歩を踏みだした時点で、その勇気を持っているんだよ。『人のために何かしをよう』とする精神が」


 赤羽は、その言葉に黙った。本当は何かを言いたかったようだが、それを上手く言えなかったらしい。彼の言葉を聞いて、それに「ハハッ」と笑う事しかできなかった。赤羽は自分の頬を掻いて、元冒険者の目を見つめた。「豊樹」


 つい呼び捨てになってしまったが、豊樹の方はあまり気にしていなかった。


「アンタは、面白い奴だよ」


「そうか?」


 今度は、豊樹の方が驚いた。彼にそう言われて、その反応に困ってしまったらしい。彼は赤羽の顔をしばらく見ていたが、やがて「ニコッ」と笑いはじめた。「なら、面白く行こう。ここは、憂鬱の空間だ。少しの落ち込みが、命取りになる。怖い空間には、それを吹き飛ばす気合いが必要だ」


 赤羽は、その言葉にうなずいた。どこかこう、嬉しそうな顔で。

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