第9話 カウンセリング

 気が付くと涼子は全身がヌルヌルした状態でどこだかわからない狭いところに閉じ込められていた。しかし目覚めても慌てたり叫んだりといった様子はない。その目は虚ろで、まるで気力がないようだ。


 イケメンによるカウンセリングは思わぬ方向へ進んだ。はじめはただの世間話をしていたはずだった。しかし気づけば涼子の心はすっかりイケメンに捕らわれてしまったのだ。


 話の舵を大きく切ったのは他でもない『害虫』の話だった。「最近蚊が出始めましたよね」というイケメンの話に涼子がはっとして答えた。


「そういえば今朝大きなムカデが出て」


 大きいって、どのくらいです? と訊ねられて「20センチくらいかな」と答えると、イケメンは少し青くなってその顔を引き攣らせた。


「うわあ、大変でしたね。旦那さんが?」


 まさか目の前の涼子がその手で叩き潰したなどとこのイケメンが想像するはずがない。真実を告げてよいものか図りかねて「ご自身なら、倒せます?」と自然に話をすり替えるとイケメンは「はは」と苦笑いをした。


「得意ではないです。けど、頑張りますよ。家族を守るためなら」


 あら、好感度高い。

 この場合「そりゃ倒しますよ、男の自分が、家族のために!」というガツガツとした回答が正解とは限らない。当然だが「虫は苦手だからパス」というひょろい答えは論外として、「すぐに片付ける」だの「一発K.O.ですよ」だの勢いのある回答もいざその場に立つと「やっぱムリだわ」と逃げ出す想像が出来てしまうのであまり良くはない。あくまで涼子の考えでは、という話だが。


 その点でこのイケメンの回答は涼子としては満点に近かった。「得意ではない」と明言してしまうのが特に良い。「得意ではないが家族のために頑張る姿」というのに妻は胸キュンするのだ。涼子の場合は、だ。


 しかしそれに比べて涼子の夫、隆久たかひさはというとどうだろう。涼子が虫にさわれるからといってまるで害虫駆除は自分の役目ではないとでも言うようなあの存在感のなさ。今朝だってあの場に隆久は居たはずだ。息子の雄飛ゆうひが涼子を呼んだのは習慣から仕方ないとして、それでも家族のピンチにもう少し立ち会う気持ちがあってもいいのではないか。セリフのひとつも吐かず、どこかの陰に格好悪く隠れて震えていたに違いない。そして駆除が完全に終わってから何食わぬ顔ではじめて登場して、その上「その服……」と涼子にダメ出しをしてくるとは一体何事ぞ。


 はっ、と気が付くと目の前でイケメンが「どうかしましたか?」と心配そうな顔を向けていた。


「ああいえ、なんでもないです」


 笑顔を作ったつもりが苦笑いになってしまったようだ。鏡に映すようにイケメンも苦笑いをしてきた。


「けどいますよね。虫が完全にダメな男って。ボクの友達にも何人かいますけど、それが原因で彼女に捨てられた奴もいますよ」


「……そうなんだ」


「まあ毒がある害虫なんかは特に、危険がありますからね。彼女の部屋だったとはいえ、彼女を置いて逃げちゃやっぱダメですよね」


 隆久だったらどうだろうか。いや考えるまでもない。あいつは逃げる。そして安全なところから「倒した?」などとのうのうとメッセージを寄越してくるに違いない。


「あと振られる原因といえばファッションもあるみたいですよ」


「へ、ファッション?」

 随分急に話が変わったな、と思いながら聞き返した。涼子にとっては『害虫』の話だったがイケメンの中では『破局原因』の話との認識だったらしい。


「下手に口出ししちゃって、ドカン。はい、もうおしまい。って」


 イケメンは握った拳を開いて爆発、つまり破局を示した。


 涼子は内心ドキリとしながら「へえ、たとえば?」と訊ねてみる。


「言わなきゃいいことを、言いかけて、言わない。……わかります? 『その服さあ……』で終わる、みたいな」


 ピンポーン。該当者アリ。

 涼子の中でそんな音が聴こえて堪らず顔をしかめた。


「女の子から聞いたんですけど、着ている本人もわかってるんですってね。なんか違うなとか、変かもな、って。そしてわかってることを言われると、人は腹が立つんですよね。特に自分よりもファッションに無頓着と思う相手からだとなおさら。おまえになにがわかるんだ、って」


 今朝の涼子は夫に対して特に腹を立てたわけではなかった。しかしなんだろう。このイケメンの話を聞いたら今更だが夫のことが腹立たしく思えてきた。


 ──「靴下のせい?」


 今思えばあの発言は涼子の靴下選びのセンスや着合わせ術をバカにしていたようにも思える。


 なによ。バカにしないでよね。


 まだオバサンなんかじゃないんだから。スマートカジュアルパンツだってちゃんと履きこなせるんだから!


 途端にこれまで溜め込んできた夫への不満や鬱憤がせきを切ったように心にあふれ出した。


 同時に、黒く、気持ちの悪い何かが自分から勢いよく湧き出ているのが見えた。


「え……なにこれ」


 みるみるうちにそれに飲まれて、涼子は意識を失った。目を閉じる前に、憐れむようにこちらを見下ろすイケメンの顔が見えた。



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