第8話 ワンプッシュ


 その頃ムカデは瀕死の身体を引きずって懸命に這っていた。致命傷を免れたのは靴底が衝撃吸収にすぐれたゴム素材だったからだろう。


 探しに探して、やっと目的の相手らしい人物を見つけたというのに話しかける前にこんなことになるとはとんだ計算違いだった。優花とのやりとりで、マジョンヌへのスカウトにはこどもの存在が不可欠だということを学んだばかりに、娘の夢莉が起きるのを待ってしまったのが良くなかった。というか迂闊に見つかってしまった自分がまず愚かだった。


 そんなことより。


「まずい気配が……するカサ、……ユウカ」


 ムカデには敵の出現を察知する能力が備わっている。先ほどからその気配がビンビン来るのだ。それもなかなかの邪悪な気配が。


「これはナマズヌスの……比じゃないカサ」




 その時優花はパート上がりで職場のスーパーで買い物をしていた。食材売り場からひとつ外れたコーナーに文房具や洗剤などの生活雑貨、そして季節の売れ筋コーナーがある。そこに立つ優花の見つめる棚に貼られた目立つ文字には『イヤな虫の季節 害虫駆除!!』とあった。近くには『ワンプッシュで簡単! 害虫が姿消すスプレー 一八九〇円(税抜)』が並ぶ。


 これ……。これを部屋に散布すればあのムカデはもう室内には来られなくなるのではないか。いくら優花に「マジョンヌになるんだカサ!」と叫ぼうが外からではきっと聞こえない。


 コモには「さあ? 夢でも見たんだよ」と言えばそれで済む。よし。それでもう忘れよう。そう思いスプレーに手を伸ばす。が、取るのをためらった。


 一八九〇円……。


 高い。


 どうして困らされている、どちらかと言えば被害者側の優花が二千円近くもする高級殺虫剤の代金を負担しなければならないと言うのか。それもワンプッシュしか使わないかもしれないものを。というかいっそワンプッシュで効くというのならワンプッシュ分だけの内容量でいいから安く売ってほしい。


 まったく都合の悪い世の中だ。


 迷った末に結局買わずにスーパーを後にした。歩道を歩きながらそう言えば殺虫剤は切らしたことを思い出しそれなら安いものでもいいからひとつは買えばよかったか、などと考えていたところ足元からヨレヨレしたカサカサという音が聴こえた気がした。


 ヨレヨレしたカサカサ。


「ユ、ユウカ……カサ」


 見下ろして、見つけた。確実に見つけた。が、優花は足を止めなかった。


 なにも見てない聴こえてない。私は知らない見えない聴こえない。


 実際優花には常にムカデの姿はモザイク加工が施されて見えている。でないと相手がわしゃわしゃ動くたびに絶叫することになるから。ある種の自己防衛だ。


「ま、待つカサ! ユウカの知り合いが、危ないんだカサ……!」


 ムカデの必死の叫びを背に浴びて優花は「ああもう」と項垂れる。知り合いを出してくるなんて、卑怯にもほどがある。仕方なく振り返った。


「ムカデさん」


「……はい」


「買った食材、置いてくるし、コモのカーネーションも今持ってないから。一回帰るけど、いいですか?」


「も……もちろんカサ!」


 涙声だったことはわかったが、顔を上げたムカデが本当にその目を潤ませていたことに優花は気づいていない。なぜならそのグロテスクな顔を優花は絶っっ対に見ないから。



 と、その時突然南の方角から邪悪な気配が拡がり、一瞬にして空の色が禍々しい黒い色へと染まった。


「ユ、ユウカ! 幻獣カサ」


「あっちは……小学校のほうだよ!? またナマズ?」


「いや、ナマズヌスじゃないカサ」

「え……?」


「これは恐らく『人喰いうなぎ』の【ウナギトン】だカサ」


 またヌルヌル系かよ!



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る