第3話 ムカデの願い


「はあ、はあ……」

「はあ、ああ、カサ……」


 時刻は間もなく夕方5時を迎える。4時に遭遇してから約1時間に渡る攻防が繰り広げられたわけだった。


「……いい加減、死んでくれない?」


「し、死にたくないカサ。というか、聞いてほしいカサ」


「ひ、喋るな! キモい!」


 ──シュウウウウウウ!


「や、やめ、やめてっ! ていうかそっちじゃないカサ、見てないから当たらないカサ」


「見れないよ、キモすぎてっ!」


「もう、これ以上心を傷つけないでカサ……」


 ──シュウウ……カスン。


「……え!?」


 なんと頼りの殺虫剤のほうが先に力尽きてしまった。


「ぶえー、ママくっさいよー? 窓開けていー?」


 避難所のこども部屋からひょっこり現れたコモはスナック菓子をもぐもぐしながら「ねーごはんなに?」と何事もないかのように冷蔵庫から麦茶を取り出しながら日常的な話題を振ってくる。


「えっ、今何時」

「5時ー」


なんてこと。私の憩いの午後タイムが……。


「つかれた……」

「ああ、本当にカサ」


 疲労というのは思考を鈍らせる。普段ならひと目見ただけで絶叫してしまう、絶対に受け入れられない巨大ムカデも長時間見ていると(実際直視はしていないが)なんだか慣れてきてしまった。


 詰まるところ優花はいよいよこの喋る巨大ムカデの存在を受け入れ始めていた。……というのに。


「ひゅう、ひゅ、……ああ、苦しいカサ」

「えっ」


「直接、当たらなくても、空気、空気中の、殺虫剤が、効くんだカサ……。今になってようやく……効いてきたみたいカサ」


 無情にもムカデが瀕死になっていた。


「え、え!? ちょ、待ってよ、死ぬの!? 今!? 今から!?」


 願ってはいたがいざそうなるとまた死骸の駆除に困るということにここで気がつく。


「ひゅ……、ひゅ……、頼みが、あるんだカサ」


「な、なに」


 喋る気力があるのならなんとか這って自力で外へ出てくれないかと願うが現実はそううまくもいかない。


「地球を、救ってほしいんだカサ」


 死に際になに言ってんだろこの虫は。夢なら早く醒めてほしいと切に願った。開け放ったキッチン奥の窓の外から5時を報せる『ゆうやけこやけ』の町内放送が聴こえ始め、優花は晩ごはんの支度をしなければ、と思い出した。害虫のそばで料理をするなんて気分最悪だが娘が腹を空かせているので言ってもいられない。とりあえず意味不明なことを言ってくる死にかけのムカデはもうそのまま放置して、換気のためにベランダの大窓も開け放ちキッチンに立ったのだった。



 ──数分後


「んー。晩ごはんはなんでカサ? いい匂いがするカサ」


「黙って。早く出てって害虫」


「つ、冷たいにも程があるカサ!」


「ていうか殺虫剤効いたんじゃなかったの? なんで死んでないの?」


「う、なんでかわからないけど治ったカサ。換気してもらったおかげかもカサ」


「ちっ」

「舌打ち!?」


 優花とムカデがいるカウンターキッチンにコモがひょっこり顔を出した。

「ねーカサカサぁ、どうやって日本語覚えたの? 文字も読めるの?」

「それはですねカサ」

「会話禁止!」


 よりによって今日は夫の真司しんじは帰りが遅くなる日だった。夫さえ帰宅すれば害虫駆除は任せられる。夫の帰宅までなんとか持ち堪えなければ。


「ねえママ、カサカサのごはんは?」


「カサカサ?」

 さっきから気にはなっていた。まさかとは思うが、コモよ。おい。


「このムカデさんの名前!」

「いえいえワタクシはアシ・メチャール・ヤナ「名前なんて付けなくていいから!」


 発狂しそうな母親に「えー、なんでよー。いいじゃんー」と口を尖らせる無邪気な娘。


「ていうか近づいちゃダメ。危ないからほんと。もう早く出てってよほんとムリほんとヤダまじムリだからもうっ!」


「お願いですから追い出そうとしないで聞いてほしいカサ。このままじゃ地球が危ないんだカサ」


「ねえキッチンに近づかないでくれる? 不衛生だから」


 ゴムボールを投げているのに鉄球を返されるような会話にムカデも疲れ始めていた。このままでは高確率で殺されてしまう。もういっそ聞いてもらえなくとも一か八か本題をぶつけてみよう。追い込まれたムカデはそう決めた。


「地球を救えるのはユウカ、あなたなんだカサ! 【ミセス・マジョンヌ】になってほしいんだカサ!」





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