見知らぬ情景
都市を抜けると、本格的に自然が豊かになってきた。
高層ビルに代わってあちこちに大きな木が生え、草むらが地面を覆っている。虫や鳥は都市よりも圧倒的に多く、特に虫の数は桁違いだ。地平線の方に大きくて茶色の、動物らしき姿も見られる。
人類の生存を脅かすほど悪化した環境も、四万年も経つとここまで自然回復した。生き物に溢れた環境であるが、かつてこの地には大きな密林があった筈だと、気象学などの観点では言われている。今はまだ、再生途中の環境という訳だ。
この治りかけの自然を満喫するのも悪くない、とアローナは思い始める。とはいえ今日の目的を思えば、のんびり此処に立ち止まっている暇はない。
今日の目的は海に行き、夕日を眺める事だ。
「アローナさん。虫除けスプレーをしますね」
「ほーい」
町から出たアローナに、付き人の一人がスプレーを掛けてくる。
爽やかな香りが全身を包む。とても心地良くて、虫除けだと分かっているのに思いっきり吸い込みたくなるほどだ。
こういった道具の多くは、ヒトが栄えていた時代の産物である。四万年前の文明衰退期を生き延びたとはいえ、全盛期の科学文明の多くは失伝した。今テレパシスト達は文献などを発掘し、可能な限りテクノロジーを復活させようとしている。
……ただし人類文明衰退の原因が環境破壊だったので、環境に良くないテクノロジーには『改良』を施すが。今回の虫除けスプレーも、撒いたばかりなのに蚊が周囲を飛び続ける程度には、環境に優しいもののようだ。
愚痴りたくもなるが、文明存続の代償なのだからワガママを言っても仕方ない。アローナは大自然を受け入れ、目的地である海へと向かう。
付き人達もアローナの両脇を固めるように、横に付いてくる。回復した自然界には多くの野生動物が生息していた。人間を襲えるほど大きな動物もゼロではなく、彼女達はいざとなればその身を盾にしてでもアローナを守る。命懸けの役割だ。
……命懸けだが、しかし文明衰退期に大型生物の殆どが絶滅した。四万年も経ったので新しい種も現れたが、まだまだ数は少ない。
「ところでなんで海に行くのです? 夕日を見るだけなら、わざわざ海に行かなくても良いと思うのですが〜」
五分と経たずに、おっとり警戒心緩めの付き人が今回の外出についての疑問を口にした。もう一人の付き人は呆れた顔をしていたが、「後で説教してやろう」と言いたげな表情をするだけで、止めはしない程度にはこちらも危機感が薄かった。
外出の目的については申請時に記載しているが、『何故海で夕日を見たいのか』は伝えていない。
勿論理由がなければ夕日を見るなとは言われない。ただの散歩でも外出許可自体は下りるのだから。付き人も、そこに大した理由があるとは思っていないかも知れない。
実際、アローナも大した目的がある訳ではない。
ほんの少し、確かめたい事があるだけだ。
「……人間ってさ、昔は色々な種がいたそうじゃない。ヒトとか、テレパシスト以外にも」
「え? ……あー、そうですね。北京原人とか」
「それは種類じゃなくて化石に対する通称。ホモ・エレクトスとか、ホモ・ネアンデルターレンシスなどの事ですよね?」
おっとりした付き人の誤りを、もう一人の付き人が訂正。後者の言い分が正しいので、アローナはこくりと頷く。
人間というのは、生物学的にはヒト属に位置する生物の一種でしかない。
化石で発見されているだけでもヒト属の生物は十種類以上が確認されている。そしてこれらは『人種』などという小さな括りではない。種そのものが違うと考えられている。それこそ、ヒトとテレパシストのように。
しかしそのどれもが絶滅している。
生き延びたのはヒトただ一種……と、テレパシスト達が生まれるまでは言われていた。今ではヒトの絶滅がほぼ確定したので、テレパシストただ一種と言うべきだろう。
「彼等がなんで絶滅したかは、色々言われているけど、でも基本的には自然淘汰で、だから人間の乱獲とかとは違って、緩やかに数を減らしたと思うのよね」
「恐らくそうでしょうね。人間とはいえ、当時の生き方としては自然と一体化した……語弊のある言い方ですが、野生動物のようなものと思われますし」
人間だからといって、世界は特別扱いなどしない。環境変化や競争相手がいれば、種は衰退していずれ絶滅する。
ヒト属は殆どが絶滅したが、同時に多くの種も生まれている。二種どころか三種が『共存』していた時もあり、その時はさぞや生存競争が激しかったに違いない。
だがどれだけ激しい生存競争でも、本質的にはほぼ互角の椅子取りゲーム。一気に勢力が塗り潰されるものではない。
それはヒトとテレパシスト達の生存競争のように、ゆっくりしたものだったろう。何万人もいた人口が何万年も掛けて一万人以下になって、数千人以下になって、数百人以下になって……
何処かで、たった一人になった筈である。
今のアローナと同じように。
「それに気付いたら、なんか気になっちゃったのよね。他のみんなは、どんな気持ちでいたのかなって」
どの時代でも『人間』自体はそれなりにいただろう。生存競争の勝者が、大手を振って大地を闊歩していた筈だ。別種と言っても劇的な差がない事から分かるように、見た目も然程違わない。
だが
仲間のような存在がいるのに、本当の仲間はいない。
アローナと同じ立場の者達が、過去には何人かいた筈なのだ。彼等が何を考えていたのか、何を思ったのか。それを知る術は勿論ない。みんな、とっくの昔に
それでも知りたいとアローナは思った。どうしたら良いかと考え、本やテレビで知識を集め、やがて一つの案を閃いた。
彼等と同じ景色を見れば、同じ気持ちになるのではないかと。
「色々本を漁ったら、書いてあったの。最も新しい時代で確認されたネアンデルタール人の痕跡は、海沿いの洞窟だって。それが本当なのかも、今は違う説が主流なのかも分からないけど……きっとそのネアンデルタール人は、一人で夕日を見ていたと思うのよね」
ネアンデルタール人。かつてヒトと同じ時代を生き、けれども気候変動などの要因により絶滅したヒト種の一つ。
ヒトと同じ時代を生きていた彼等は、ヒトとの生存競争に敗れたとも言われている。寒冷化による獲物の減少が起きた環境下では、屈強な身体を維持するのに多量のエネルギーが必要な彼等よりも、非力な反面食べ物が少なくて良いヒトの方が適していたからだ。
事実は未だ分からない。何万年も前の出来事だけに、分かる事もないだろう。どれだけ調べたところであくまでも仮説である。ましてや本の記述は、その仮説を元にして書いた更にあやふやなもの。時代や作者によって中身なんていくらでも変わるし、センセーションな書き出しにするため曲解もしているかも知れない。何処まで当てになるか分かったものではない。
だからこれは全く頓珍漢な、的外れな行動かも知れない。
けれどもきっと、ネアンデルタール人も海に沈む夕日を見たと思ったら――――アローナは行動せずにいられなかった。そこに『仲間』の気持ちがあると思ったから。
「だから、まぁ、私がやりたいってだけで、散歩みたいなもんなのよ。うん」
最後の方では顔を反らし、アローナは頬を掻く。
途中話していたように、元々根拠がある訳ではない。話しているうちにそれを強く自覚し、なんだか自分の行動があまりにも衝動的に思えて、照れてきてしまった。
いっその事笑ってくれれば、それはそれで気持ちの切り替えもスッキリ出来たのだが……付き人二人は、アローナの事を笑わない。一人は真摯な眼差しを向け、一人は慈しむような微笑みを浮かべる。
彼女達は、アローナの心を寄り添っているのだろうか。
けれども本当に、アローナからすると大事のつもりはない。真面目に反応されてしまうと、どう答えれば良いか分からない。いや、それどころか心が読める彼女達にそんな反応をされると、これが自分の本心なのかとも思ってしまう。
何か言おうと口を開くも、アローナの喉は言葉を紡がず。どうしたものかと悩めど、考えるほど何を言えば分からない。
「そ、そんな事より、折角の外出なんだから楽しくしないと! ね? ね?」
どうにか力尽くで言葉を絞り出してみたが、何故かお願いするような形になってしまった。
あれ? なんかこれ違うな……と思い首を傾げるアローナ。その姿が滑稽だったのか、おっとりした方の付き人が吹き出す。それを見ていたもう一人の付き人が後頭部を軽く叩いたが、タイミングが悪かったのか、叩かれた付き人は勢いよく息を吹く。
「うっわ汚っ!?」
カチューシャから響くこの声は、しっかり者の付き人の本音だろう。
予期せぬ形の言葉は、しっかり者の付き人にはあまり似付かわしくない。プライベートの彼女はこんなにフランクなのかと、ギャップを感じ、思わずアローナは笑ってしまう。
何故笑われたのか察したのか、しっかり者の付き人は顔を赤くした。ここまで分かりやすく反応されれば、『ヒト』であるアローナにもその心境は手に取るように分かる。付き人の方も、何を言っても墓穴を掘ると気付いたのだろう。
反論代わりに、相方の頭をぺしぺしと叩く。おっとりした付き人がカチューシャから「止めれ〜」と訴えていたが、悲惨さがまるでない。分かっていてふざけているなと、アローナでさえ察しが付く。
もうアローナはげらげら笑うしかなく、おっとりした付き人も笑う。しっかり者だけがむくれていた。
固まっていた空気が、一気に解れていく。
そうだ、こんなもので良い。だってこれはただの、無学な小娘が衝動で起こしたちょっとした遠出に過ぎないのだから。
……そう心の中で言い聞かせても、アローナの胸の奥が疼く。
一人ぼっちの暗さが。
『仲間』への情動が。
「……ほら、急がないと先に行っちゃうよー」
誤魔化すように、付き人達を急かす。
何も言わない彼女達と共に、地平線の向こうにある海に、少しでも早く辿り着くために……
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