第15話
突き立てた牙を抜くと、溢れた血がアンクの口を濡らす。口吻がひくひくと動いて、長い髭が僕の腕を擽るけれど、僕の意識は止め処なく流れる赤色に注がれていた。
「……アンク、飲んで」
どくどくと、血液を外に押し出す心臓の律動が、僕の胸と、傷口からも感じられて思わず眉根が寄った。アンクを呼ぶ声が震える。自分の血の色を見たのなんて、翼を無くしたとき以来だ。
あのときの痛みを僕は覚えていない。ただ緩やかに、少しずつ熱をなくしていく愛し子のそばで、旅立つ姿を目に焼き付けるのに必死だった。
送り歌は忘れもしない。僕は気を紛らわせるために深く息を吸い、口遊んだ。
『いまわの かがりび
なゆた あまた
つどうかわもに すべるりゅう
なきう──』
変なところで中断してしまったのは、傷を作った左腕に鋭い痛みが走ったからだ。ただでさえじくじくと損傷を訴えていた傷口を見ると、苛立ったように皺を寄せた口吻にかぶりつかれていた。
新たな傷はできていないと思うけれど、噛み締められた傷口からじゅわりと血液が滴る様子は直視するのが憚られるほど痛々しい光景だった。
「できるなら、優しく舐めてほしかったなあ」
“縁起でもない歌なんか唄うからだ”とでも言いたげにしっかりと開かれた青と緑。左右で色の違う双眸が僕を見上げたことに、何よりもまず安堵した。
アンクが突っ込み処があれば茶々を入れたくなる性格で良かったのかも知れない。……いや、そうでなければそもそもこんな状況にはなっていなかったか。そんな問答が内心でできる程には気持ちが楽になっていた。
僕が血に塗れた腕を差し出していることの意味が分かるのだろう。アンクは何も言わずに僕から溢れ出す糧を舐め摂っている。時折舌を使って吸い付いてくるから、一気に血が抜けて少しくらくらするけれど、大丈夫。まだ大丈夫なのは分かっている。
「アンク、おまえ、人の姿には変身できる?」
ゆっくりと瞬きをして、肯定を示すアンク。良かった。
「体を小さくした方が、助けられる確率が上がるんだ。そのために魔力を使うのは、少し危ないかも知れないけれど──」
じっと僕の顔を見つめて、耳を傾けていたかと思えば、しゃぶっていた僕の腕から口を離して、迫ってくる翡翠と蒼玉。縦長の瞳孔がゆっくりと開いていくのを話をしながら見ていたら、鼻先にひやりと濡れた感覚がして、次いで唇を生温かいもので塞がれた。
「んむ…!」
喋りかけの口から変な声が出た。口の中に仄かな鉄の味を残し、すぐに離れたアンクの舌は、僕の魔力をごっそりと持っていった。
木属性の吸引魔法。そういえば、妖精犬の魔法属性は木だったっけ。そんなことを考えていると、アンクの身体が魔素の光に包まれ始めた。
変身魔法は本来、使われる魔力量によってその精度も変わる。極少量の光魔法なら、周りからの見え方を変えるだけのものになるし、様々な属性の魔素を潤沢な魔力で上手く練ることができれば、小さな身体を構造ごと大きく変えることもできる。
僕からあり得ないくらいの魔力を吸い取って、フウワたちから大盤振る舞いされた魔素を練ったアンクの身体は、果たしてみるみるその大きさを縮めていった。
妖精猫の変身魔法は年相応の姿になる、という情報は誤りだったということか。やはり自らの目で見て確かめたこと以外のことを鵜呑みにはできないな。
身体を作り終え、光が徐々に収まると、僕の上にのしかかっていた重みも随分と軽くなった。これはこれでまた少し心配になる軽さだ。
もふもふとした感触は何故か無くならないと思ったら、腹の上に乗っていたのは、黒い毛毱だった。
一瞬、獣の姿のまま小さくなったのかと思ったら、どうやらそれは元の身体から脱いでできた毛皮だったようで、つまみ上げるとご丁寧にローブのような形に仕立てられていた。
被っていた毛皮が取り払われて、はじめに目に留まったのは、臙脂色の大きな耳。頭髪の色も同色に変わっている。けれど、内側は元の黒色だ。まるで黒い蕾が花開いて、内に隠していた艶やかな色を曝け出すように。
眉に沿って整えられた前髪には、一筋だけ黒い房が混じっていた。
厚みのある耳に触れてみる。触り心地は獣の姿のアンクと同じで、目の前にいる小さな生き物がちゃんとあの子なのだと感じられた。
「アンク?」
名前を呼ぶと、撫でていた耳がピンとこちらを向いた。下ろされていた瞼がゆっくりと開かれる。長い睫毛に、大きな目、筋の通った鼻に、ふっくらとした唇。想像していたよりも幼いけれど、華のある顔が僕を見上げた。
「……おれ、上手く、できた?」
「うん、いい子。上出来だ」
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