第10話



「アンク、知っているかい? 幸福というのはとても身近に、目を凝らすほどにたくさん見つけられるものなんだよ」


 おれの頭から腕をほどきながら、ヨダカは言った。

 うん、そうだね。

 昨日までは全然知らなかった。でも今なら分かるよ。


 何が幸せか、なんて、聞かれて思い浮かぶことはひとそれぞれ違うんだろう。

 おれは食べることが好き。眠るのも好き。仲間との追いかけっこや、獲物を仕留める瞬間も。きっとおれはそのどれをしている時も、大なり小なり幸せを感じる。


 けれど、みんながおれに願う“幸せ”は、きっとそういうのじゃないんだ。


 おれに──猫王の子、アンク=パンプジークに対して、民の誰もが願う、幸せ、とは。




『オー シャナナ タシェッタ

ティルリアン ナーク』




 ……ヨダカがまた何か歌い出したぞ?

 耳に馴染みのない、言葉というより呪文のようなで、ヨダカは口遊む。歌声も、独り言のような声量なのに、音が複雑に絡み合うような不思議な響き。昨日お見舞いされた超音波といい、ヨダカの声帯はどうなっているんだろうか。


「お……? しゃな……?」


 復唱してみようと思ったけど無理だった。


「考えたって仕方がない、って意味だよ。おまえ、また色々と考えてたね」


 セイレーンっていうのは、会話中にまで歌う感じの生き物なのか。それともヨダカ固有の生態なのか。

 いや、そういえば会話中じゃない。会話なんてするのを忘れて、またおれは黙々と考えてしまっていたのか。


「ごめ! ……んッ?!」


 慌てて顔を上げると、謝ろうと開いた口にヨダカが手を押し付けてくる。口の中に何かがひょろりと入ってきて、思わずそれを飲み込んでしまった。


「まって! 今の何?! 何か飲んじゃったよ……?!」


 一瞬、ねじ込むような強引な力が加わったように感じたのに、穏やかな表情を崩さないヨダカ。ねえ、全然喋らないじゃないか、この鳥。


「ヨダカ、ねえおれに何食べさせたの?」


「……」


「ねえってば!」


「僕の友達をね」


「ええ?! なんてことを……!」


 何でそんなことするの?

 友達って何? 食べて大丈夫なやつ?!

 ちょっと泣きそうなおれを見て、ヨダカは肩を竦めて見せる。

 無意識に背中が丸まって、威嚇態勢になっちゃったじゃないか。

 しかもきみの友達、まだ喉のところで動いてるんですけど!

 吐きそう。おれは口を肉球で押さえてヨダカと睨めっこをした。



 ……。


 …………。


 …………あれ?


「あれれ?」


「……気づいたかい?」


「ええ、すごく、喋りやすいです……!」


「フウワ、成功だ!」


 ヨダカがおれに向かって両手を広げ呼びかける。いや、おれの喉の、フウワと呼ばれた、おそらく友達に向かって。その声に反応して、おれの喉でぎゅるぎゅると転がるヨダカの友達。

 ちょ、ちょっとそれはよろしくない!

 おれは耐え切れずにおえ、とそれを吐き出した。毛玉の時よりはマシだけど、ちょっとつらい。


 吐き出したと思ったそれは、全く姿が見えなかったけれど、周囲にたちまち強い風が吹き上がったので、おれは何となくフウワの正体に見当がついた。


「アンク、これが僕の友達」


 静かだった世界樹がぐつぐつと微かに幹を軋ませ、広げた枝葉を鳴らした。

 ヒューヒューと空気が通る音とともにヨダカをぎゅうっとその細長い身体全部で抱き締めたのは、白銀色に光る美しい蛇だった。


「……き、みが……フウ、ワ?」


 自分の尻尾を噛んでくるくるとヨダカを囲う白蛇は、おれが名前を呼ぶと光を増して回る速度を速めた。生まれた風がヨダカの頭部の羽たちをふわりと舞わせる。


「“くう”の精霊だよ。とても綺麗だろう?」


「ん。けど……」


 おれの予想は当たりだった。けれど、精霊というのは姿形や感情が無く、ただ魔法の元となる魔素を生み出す存在だと習ったことがある。

 フウワのような精霊は見たことも聞いたこともないし、名前を呼んで親しんでいるヨダカみたいな存在もおれは知らない。


「そう。誰もがその姿を見られるわけじゃない。素質のある者が、存在を強く感じて、目を凝らすことで、精霊は本当の姿を僕たちに見せられるんだよ」


 小さく、ヨダカの手のひらにとぐろを巻いて収まったフウワ。つぶらな碧い瞳まで、貴石を集めて作ったように、本当に綺麗だ。


 それをおれに飲ませるなんて。


「……へぇ」


 ヨダカ、きみ、どうかしてるよ。




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