第8話
「妖精犬は世界樹との結び付きが深いと聞いたことがあるけれど、あれは本当なんだね」
そんなことも知っているのか。
おれは木の根に寄り掛かって寝そべりながら、輸送で乱れた毛を舐め整えた。こうしているだけで安らぐのは、おれに神樹の眷属の血が流れているからだ。
かつてその根で世界の全てを覆っていた神樹──世界樹は、おれが生まれるよりもっとずっと昔に朽ちてしまったというけれど、その子株たちはこうして今も世界の各地で息づいてる。
「おおーーーーーーん!」
おれが遠吠えすると、短い沈黙のあとに世界樹の内側から複数の遠吠えが返ってきた。この木はこうして遠くにいる仲間との意思疎通も手伝ってくれるんだ。
すっかり気力が戻ったおれを見て、ヨダカの顔にも安心の色が見えた。
「食事と安全な寝所。とりあえずはこれで大丈夫だろう。今夜はここでゆっくりお休み。寝て起きたらもう少し、元気になっているはずだからね」
おれの額を撫でて、離れる手。こちらに体を向けたまま、音を立てずに遠ざかるヨダカ。さっきまであんなに意識的に喋ろうとしてたおれの口は、彼の名前を何度も呼ぼうとしては痞えた。姿が見えなくなる前に、唇の前に立てられた人差し指は、人間がよくする「静かに」の合図だ。おれは完全に口を閉ざした。
ひとりぼっちになった後、森の奥からまたかすかに歌が聴こえた。眠りを強いる、ヨダカの唄。
おれは、すとん、と夢の中へ落ちていった。
葉っぱの擦れる音が近くに聞こえる。
足元に温かなふわふわ。おれがすやすや眠っていた。世界樹が自分の感覚をおれと共有しているみたいだ。
空から光が降り注ぐ。腕や手のひらでいっぱいに浴びる。ちょっと熱いくらいだけれど、足元はとても涼しい、昼間の記憶。
いくつもの足音は、どこかの森の、株分けした兄弟の感覚だろうか。
足音は群れをなして遠くへ、そして近くへ。ある世界樹からまた別の世界樹へ、渡り歩く群れ。
この動きはおれにも覚えがある。
入るには道順を守らないといけないから、訪れるのはたまたま迷い込むか、研究熱心な人間くらいだったけど、仲間たちは自由に外と内を行き来していた。
──アンク。
足元のふわふわが、ぴくりと耳を立てた。
今おれの名前を呼んだのは、……母さま?
父さまはお喋りが好きだけど、母さまは多くは語らない。けれど愛情深くて、いつでもおれのことを優しい目で見守ってくれていた。
離れていても、名前を呼んでくれていたの?
大丈夫。心配しないで。伝えたかったけど、今おれが動けないでいるのを知ったら、もっと心配してしまいそうだからやめておこう。
──アンクさま。
──アンクさま、アンクさま。
──王子さま。
──どうか幸せに。
おれを呼ぶ声はひとつではない。無数の祈りが母さまの声を掻き消した。
世界樹の葉に、祈りを吹き込む習慣は、おれが生まれてから猫の国で流行ったものらしい。
妖精猫は元々世界樹とは繋がりのない存在だ。父さまと母さまが結ばれたことで、妖精猫と世界樹にも結び付きが生まれた。それ自体は良いことなんだろうけれど。
おれの幸せを願う、名前も知らないひとたちの声が、おれの体に伸し掛かってくる。
ひとつひとつは小さくても、たくさん集まれば大きな重圧になる。
苦しい。
ねえ、みんなはおれにとっての幸せが何か、知っているの?
教えておくれよ……。
お腹いっぱい食べたけど、たくさん眠っているけれど、今が幸せなんて、おれには言えないよ。
毎日を生きていくのに必死なおれは、これ以上どうなれば、みんなが望むものになれる?
苦しい。
「……く、」
苦しい……くるしい。
「……ンク、アンク、起きて」
はっ、と飛び上がる勢いで顔を上げると、隣にはヨダカが膝をついて、おれの肩を揺すっていた。目が合うなり両手でおれの顔を持ち上げて、じっとこちらを見つめてくる。
大きな黄緑色の瞳。昇りたての太陽の光に照らされて、紅色が差している。吸い込まれるような不思議な瞳だ。
「一体どうしたんだい? 元気になるどころか、あんなに魘されて……」
静かな声色なのに、わしゃわしゃと頬を撫でたり、汗で濡れた前足の肉球をふにふにしたり。寝起きにはちょっと騒がし過ぎる。
けれどなぜかそんなヨダカの存在に、おれの心が落ち着いていくのが分かった。
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