第6話
最後の肉片を、ヨダカが皮から剥ぎ取って差し出してくる。
「骨まで綺麗に食べてくれたね。きっとうさぎたちも浮かばれるよ」
浮かばれる?
食べた後の獲物のことなんて、考えたこともなかったな。彼は自分が糧にしたものにもこうやって思いを馳せるのだろうか。
肉片を前歯で摘むようにして受け取る。死んでいった獲物の気持ちなんて分からないけれど、周りを汚さずに食べるのは得意だ。獲れた糧は無駄にしたくないし。それに、水浴びしないと落ちない汚れなんて付けたくないからね。おれは体が濡れるのがいちばん嫌いなんだ。
対してヨダカの手は、血抜きもしないで肉を扱ったせいで、手首の方まで赤黒い血でべとべとだった。おれが肉片を取り落とさぬように出されたままだったその手を、おれはぺろりと舐めてみた。
ぴく、とヨダカの肩が揺れる。けれど手は引っ込んでいかない。それならとおれは遠慮なくヨダカの手から残さず糧を舐め取っていった。
手のひら、手の甲……傷ひとつ無い滑らかな肌。きっと人間にも大切に飼われていたんだろう。
ヨダカはヨダカでおれに興味津々な様子で、指先を舐めている時なんか、舌を掴んだり、親指の腹で撫でてきたりするものだから、危うく腹に収めたものを戻しかけた。
反射で噛んじゃったらどうするんだ。でもハラハラしていたのはおれだけで、彼は暢気なものだった。
「舐められても痛くない。おまえの舌には棘が無いんだね。……そうか、骨も噛み砕くほどの顎の力があるなら食事では必要ないね。じゃあ毛繕いはどうしているの?」
そうなんだよ!抜け毛が中々引っかからないから毛繕いが本当にたいへんで!
めいっぱいの困り顔で「にゃおぉ」と鳴いてみる。完全にマイペースなヨダカに流されていたけど、ヨダカもおれの声に眉を寄せて笑っていた。
「ふふふ、そうだよね。でも、僕を傷付けずに舐めてくれる。棘のない舌も一長一短というところかな」
きみを傷付けずに舐められることに、どんな利点があるのか是非教えてほしいんだが。
「おまえがふつうに猫みたいに鳴いたのを初めて聞いたよ」なんて言いながら、ヨダカは少し腰を浮かせておれの目の前から左隣に移動してきた。
左手はきれいにしたけれど、右手はまだうさぎの血が付いている。おれはそれが気になって仕方がなかったので、鼻先で肘をつついて手を寄越すよう促した。
特に何の疑問も抱かずに差し出される右手。まるで言葉を持たない生き物との意思疎通にも慣れているような動きだ。
持っていた風切り羽を恐る恐るくわえて地面に置く。羽には柔らかさが戻っていた。
ぺろぺろ。
お互いに無言の時間を過ごす。おれはヨダカの手をきれいにするのに夢中だったけど、ヨダカは静かに、何か考え事をしているようだった。
「……ねえ猫ちゃん。お前には誰かに呼ばれていた名前はあるのかい?」
きれいになった手に満足していると、ヨダカはありがとうと笑ってからそう聞いてきた。
おれの名前。あるけど。呼ばれるばかりで自分で名乗ったことがない。ちゃんと発音できるかな。おれはちょっと迷った。
ヨダカは急かしもせず、しばらく待っていてくれたけど、中々言葉を発しないおれにこう言った。
「上手くやろうなんて、思わなくていいんだよ。僕はおまえが最初に飛び掛かって来る姿をとても美しいと思ったんだ。あの時おまえは失敗するかどうかなんて考えていなかっただろう?」
凪の海のように静かな声音で紡がれる言葉には、相反する熱を感じた。勿論だ。跳んだ後すぐに失敗したと感じたけれどね。
「それでいいと僕は思うよ。経験を積まなければ上達は無いんだから。言葉を話すこともそう。恐れず発言することが、上達への1番の道だ。今日のおまえがそれを証明しているよ。何度僕を逃しても、失敗しても挑み続けて、おまえは僕を捕まえた」
おれがきれいにした手で、ヨダカはおれの顎を掻くように撫でた。
「僕はあの時、今までに無いくらいの高揚を味わっていたよ。変な話だよね、これから殺されるっていう時に。でもそれが、必死に生にしがみついて、醜く足掻いた結果なら。
……僕はおまえの糧になってもいいって。ここで終わっていいって思えたよ」
でも、おれはヨダカを殺せなかった。そんなおれを、ヨダカも殺さなかったのは、どうしてなんだろう?
そうか。言葉で確かめなければ、その理由も分からないままじゃないか。おれたちにはそれができるのに。
「僕を捕まえて、留めを刺さなかった理由を知りたい。おまえのことを、もっと知りたい。だから教えてほしい。おまえの名前を」
「……ん、……ん、く……。
…………アン、ぅ……ク……」
「……アンク?」
伝わった、と思った瞬間、暗闇に覆われた世界が輝いた気がした。きらり。光る星、ひとつ。
「みゃあ!」
「アンク。いい名前だね」
ヨダカの声も嬉しそうな色だ。
きらきら、ゆらゆら、星が、ふたつ。
寂しげなあの歌は、本当は真っ暗な夜を照らす優しい歌なのだと、ようやく分かった気がした。
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