第4話




 ──グルルル、ガルル!


 ぼんやりと遠くで獣の唸り声がする。何かを追って、走っているかのような短い呼吸の音も。

 それよりも少し小さめな呼吸音。追われている側だろうか、こちらも短く早い。


 おれも追いつきたくて、必死に走る。走るのは好きだ。

 父さまからもらった瞬発力と、母さまからもらった持久力。追いかけっこをしたなら、おれに勝てる仲間はいなかった。


 逃げる相手を甘噛みして捕まえる。この瞬間が最高に気持ちいいんだ。ああ──





 意識が少しずつはっきりとしてきて、夢で聞いた唸り声と、おれの声が重なってひとつになっていく。そうか。はじめから追っていた方はおれ自身だったのか。



「……いっ!」



 ……い?

 真横から聞こえた声で、完全におれは意識を取り戻した。サワサワと、おれの左頬を擽るふわふわ。羽毛だとすぐに分かった。

 おれはあの雄鳥の左肩に、柔く噛み付いていた。甘噛みとはいえ牙が当たれば普通に痛かっただろうなあ。


 そうか、おれは彼を捕まえたのか。夢の中で感じた快感が妙にリアルだったのも頷ける。今だってそう、だいぶ気持ちがいい。全身に広がる満足感にうっとりと浸りかけた。



「……い、いたい、まって……」



 おれを目覚めさせた先ほどの声量とは違い、今度はか細い小さな声だ。妙に艶っぽい声色でどきりとした。

 思わず口を離し、後退りしようとしたけど、何かに引っ張られて叶わず、代わりにまた泣きそうな呻めき声。


 ──待て。待て待て。


 引っ張られた場所がおかしいぞ?

 もうおれの手中にあると言ってもいい雄鳥を見下ろすと、自由の利く右腕で顔を隠していたから、表情は分からない。

 けれどエルフみたいに尖った両耳はほんのり紅く染まっているのが見えた。

 染まっているといえば、彼の羽毛も色がおかしい。灰褐色が白濁し淡く光っている。頭部も翼も雪のようで綺麗だ。


 そしてその更に下で大変なことが起こってる。おれと彼は、大事なところが繋がっていた。



「……しばらくじっとしていて、おねがい」



 そんな甘い声で言うなよ。

 それにしても、……はあそうか。そういうことか。全部納得がいった。


 この雄鳥がセイレーンだというなら、これも狩りのひとつだろう。

 おれがそもそも文献で見たセイレーンは、上半身が人間の女性で、下半身が鳥の姿をしているものばかりだったけど。縄張りを通る、主に人間の男を歌で誘って捕食したり、時には繁殖のために誘惑したりするらしい。



「……おまえ、お喋りが得意じゃないんだね。何か色々考えているだろうに」



 睦言にしては随分と煽り色強めだけど、口調は穏やかだから馬鹿にしているわけじゃないんだろうな。

 図星だからこそ何も言えない。おれはこの姿じゃあまり器用に口を動かせない。仲間みたいに上手に喋れない。

 悔しいからいっかい腰でも打ち付けておこう。



「う! やめて、その意思表示……!

 ……でも妖精猫ケットシーはお喋りが上手なはずだよね。おまえの父親か母親は、きっと妖精犬クーシーだね」



 びっくりしすぎておれはまじまじと彼を見下ろした。多分、おれの目は零れ落ちそうなほどまん丸く見開かれていただろう。


 顔を隠していた腕が下ろされ、黄緑色の瞳がおれをまっすぐに見る。そこには確信的な色。

 どれだけ賢いのだろうか、この鳥は。出自まで暴かれてしまったおれは、もう彼を競合相手として見るのをやめた。完全敗北だ。溜め息が出る。



「……お、それ、……いりまし、た」



 おぼつかない口で何とかそれだけ発すると、にこりと笑っておれの頭を撫でてくる。

 なんだ、そうか。その顔を見て分かった。

 彼は初めからおれのことを本気で馬鹿になんてしていなかった。嘲笑っていたように見えたのだって、口元を見ただけじゃ真意は分からないだろう。彼をちゃんと見たら分かるじゃないか。



 真っ白に染まった羽が舞う。

 おれの全部を受け入れる笑み。まるでお伽話に出てくる天使のように、とても美しい光景だった。


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