悪い夢から、それを拾え

紫鳥コウ

悪い夢から、それを拾え

 眼をさました。ひるの眩い日差しが、身体の半分をおおっていた。叫び声も耳に残っていた。切れ切れの息のまま台所に走り、コップいっぱいに水をくんで、一気に飲み干した。嘔吐慾がこみあげてきた。先ほど見た悪夢を退散させようとでもしているのか、身体はえずくのに必死になっていた。

 もう一度水をくんで、薬を飲んだ。腰を下ろすと椅子はキイキイと音を立てた。眼の前のパソコンには、「二十×二十」に設定した原稿が映じており、それがわたしを悪夢へと誘った呪いなのだと思えるほどに、「あ」という文字が、不気味なくらい連なっていた。そして思い出した。文章がうまく紡げない腹立たしさのために、眠ってしまったのだと。


 テレビをつけると、この時間帯に放送されているはずの帯番組が別のバラエティーに置きかわっていた。今日が休日だということに気付いた。

 ふと携帯を見ると、秋野から連絡がきていた。

〈この前の小説、よかったよ。がんばってるな、えらい!〉

 救われた、と思った。

 感謝の言葉を返そうとしたとき、電話がかかってきた。母からだった――昨年末に手術をし、もう治らぬ後遺症を残した母からだった。

 わたしはまた、嫌な予感がした。それが思い違いであることを、はやく確かめたかった。が、母から伝えられたことは、あの悪夢より悪夢的なものだった。

「お父ちゃんがね、自転車にぶつかりそうになって、すんでのところで避けたんだけど、こけてしまって……それでね、手をついたときにケガをしちゃって、今度、手術することになったの。それでね――」

 父はわたしが中学生のときからずっと、単身赴任で各地を転々としていた。いまは、実家よりもわたしの下宿に近いところに住んでいた。よって、わたしが父の手術に立ち会うことになった。


 あの悪い夢のなかで、わたしの首を絞めてきた、わたしに似ただれかに、あのまま、わたしの息を――そんな妄想を繰り広げていくうちに、そして、昨年から続いている家庭の悲劇を反芻はんすうするにつれて、突然とあの発作に襲われた。

 激しい頭痛が足音を立てて疾走し、それを猛烈な吐き気が追いかけてきた。医者から処方されている頭痛薬と吐き気止めを飲んだ。この症状は、二、三日続いてしまうのが常だった。あまりに多量のストレスを一度に引き受けてしまうと、この発作に苛まれる。

 もちろんこれは、なかなか筆が進んでいかない、ある新人賞に応募する小説のことも影響しているに違いなかった。

 また悪夢を見なければならないのか?――そうした畏怖を覚えながら、再び、ベッドに横になった。が、なかなか眠れなかった。のみならず、頭痛と吐き気はミキサーにかけられて、ぐるぐると旋転しながらわたしの身体を高速で回っている。

 もう一度、さっきの悪夢を見ることができないものか。今度は、逆のことを想った。そしてそのまま、あのわたしに似ただれかに――ダメだ、こんなことを考えてはならない、わたしは、たくさんの責任を抱えていて、それをしっかりと全うしないうちには、くたばることはできない。

 なにより、ひとつの夢をなくしたいま、唯一残ったもうひとつの夢を、叶えるまでは、生きろ、いいから生きろ。そんなことを、念じ続けた。


 眠れないと思っていても、いつかは眠れてしまう。そして、どうせ夢を見てしまう。八大地獄も十六小地獄も、生きているうちから味わうものだ。逃れようともがいても、逃れられない艱難辛苦かんなんしんくの数々が、わたしたちにはすでに焼印されている。あきらめて笑うしかない。


 もうすぐ日を越えようというときに、眼をさました。

 覚えている。わたしは、研究室で論文を読んでいる夢を見ていた――思い出したくもない。割り切っているつもりであっても、研究者になる夢をあきらめざるをえなくなったことは、わたしにとって、まだジュクジュクと膿んだ傷のままなのだ。

 太ももをおもいっきり殴った。父のかわりに、わたしの手が痛んでしまえばいいと思った。

 暗闇のなかで、けっぱなしのパソコンが誘蛾灯ゆうがとうのように――芳しき花のずいのように、光っている。埋め尽くされていた「あ」は、すでにデリートされていた。ふてくされてしまう前に書いた最後の一文が、わたしになにかを訴えかけているような気がした。

 これだけは、書き切らなければならない。

 まだ、頭痛も吐き気も止んではいない。意識がどんどん明瞭めいりょうになっていくにつれて、太刀打ちできない獰猛な嵐と化して、わたしを襲ってくることだろう。

 しかし、わたしはいま、心地よい不愉快のなかにいる。陰惨な感傷に胸をかれている。二文、三文、四文、……と書いていく、ふらふらと。

 打鍵の速度が少しずつあがってきたところで、わたしの身体は、苦しいほどにえずきだした。

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