第21話 正樹と文
二十四日。
今日は土曜日なのでラジオ体操はない。
そのため早く起きる必要はないが、もはや眠気の一つもないため、ずっと起きているような気分だ。今日も布団に横になってから、眠りに着いたかどうかすらわからない。
俺はすっと起き上がり、布団を畳み、部屋を出た。
そのまま一階に降りると、猫神様が畳の部屋の縁側で外の様子を見ていた。
「おはよう。猫神様」
「ああ、おはようにゃ」
俺は猫神様に挨拶をした。猫神様は相変わらず元気そうで、こんな天気でも明るく振る舞ってくれている。
美文さんの話だと、最近はついに人にも体調不良者が出始めたみたいだ。命に別状はないみたいだし、どちらかというと精神的なものがほとんどらしい。
日差しもほとんど出ていないまま、生き物が死んだ臭いもするし、生き物が死んでいる状況だし、精神的に追い詰められてしまう気持ちもよくわかる。
ただ、この状況が長期間続いてしまうと……最悪自殺者だったり、発狂してしまうような人が出てきてもおかしくないだろう。
そんなことを考えながら俺は、仏壇に挨拶をした。
「お腹、空いてるかにゃ?」
「いいや? 空いてない」
「そうだよにゃ~。僕もにゃ」
俺は猫神様の隣に座って、猫神様が見ている景色と同じ景色を見た。
「実は、僕さっき一人で山の手前くらいまで外の様子を確認してきたにゃ」
「へえ。そりゃなんで」
「手がかりでもないかにゃ、って思ってにゃ」
猫神様は縁側の端から垂らした足をぶらぶらさせながら、話をしている。
「それで山の様子を見たんだけど……もう木とか草とかほとんど枯れてたにゃ」
「……そうかあ……」
もう霧で見えていないし、ここ数日は遠出もしていないので、付近の状況はわからない。俺たちがじっとしている間に、事態は深刻になっているみたいだ。
「なんだか肌寒いしな。そろそろやばいかも」
「そうだなにゃ。でも、僕と正樹と文が居れば、多分なんとかなるにゃ」
「そうだな」
そう思うしかない。
猫神様も自分が原因だとわかっていて、猫神様と俺たちが関連しているともわかっている以上、前を向かなきゃいけないんだ。
この綺麗で素敵な二岬を、取り戻さないといけない。
「ちょっと危険かもだけど、今日はまた祠の周りとか、手がかりがありそうなところを回ろうにゃ。正樹」
「そうだね。今は無理やりにでも手がかりを探しに行かないと。一緒に頑張ろう」
「うん!」
俺と猫神様は、そう言ってお互いの意思を確認しあった。
猫神様だって、この状況が自分が原因だというせいで、追い詰められているはずだ。だから、猫神様が諦めない限り、俺は絶対に諦めない。
昼間から夕方前にかけて、俺と文さんと猫神様は俺たちの家の周りを回り、何か手がかりがないかを探し歩いた。
猫神様と出会った祠の周りには、もう何も手がかりのようなものはなかった。
それに、家から祠までの道にも手がかりのようなものは、何もなかった。
少し気になった点と言えば、文さんの様子だ。
俺と猫神様は、この状況を何とかしてやろうとむしろ燃え上がり、高いテンションで手がかりがないかを探していた。しかし、文さんはあまり元気がなかったように見えた。
そして、何も収穫はないまま、俺たち三人は家に戻ってきた。
俺たち三人は、靴を雑に脱いで、そのまま畳の部屋に転がり込んだ。
俺は畳に座り込み、猫神様は畳に寝転がって、文さんは畳の部屋の縁側に立って、外を見ていた。
「だあああ……何もなかったな……」
「そうだにゃ……」
俺が体を伸ばすと、猫神様も体を伸ばした。
昨日の出来事で、猫神様が、もともとこの早瀬家によく来ていた野良猫だということがわかった。
それに、猫神様がこの異常気象の原因だということもわかった。
あと少しなような気がするのに、そのあと少しがまるで霧に覆われているかのように、まったく見えない。
もしかすると、なにか隠しコマンドのようなものでもあるんじゃないかと思ってしまう。
そもそも、手がかりなんてもうなくて、もう今持ってる手がかりでゴールまでたどり着ける可能性もある。近くにもう一番の手がかりがある可能性だってある。
もちろん、もう詰んでいる可能性もある。
「私……もう一回行ってくる……」
文さんは外を見たままそう言った。
でも、今は夕方だ。そろそろ夜になる。
霧のこともあるし、夜になったらさらに視界が悪くなる。
「ダメです文さん。夜にこの霧の中、外に出たら危ないですから」
俺は立ち上がり、文さんを引き留めるべく近づき、優しく言った。
「でも……この状況を何とかしないと……行動しないと……」
文さんはいつにもなく低い声で言った。
「そうかもだけどにゃ、文の安全が一番だにゃ」
猫神様も、俺の隣で優しく言ってくれた。
「私の安全が……一番……」
文さんは少し振り向いて、猫神様を見た。
まるで呆然しているような顔で。
「……そんな……」
文さんはそう呟いた次の瞬間、猫神様との距離をどんどん詰めて、猫神様の襟首をつかんで持ち上げた。
「そんなこと! 言ってる場合なの⁉」
「……うにゃ!」
猫神様は、いつもと全然違うすごい剣幕で迫る文さんに、驚いて目を大きく開けて、少し口があいた。猫神様は、見事に文さんに持ち上げられている。
「いろんな生き物が死んでるんだよ? みんなもそうなるかもって不安なんだよ? これからどうなるかわかんないんだよ? どうにかしないといけないの! 私たちが! 猫神様と近い関係の私たちが何とかしないといけないの!」
文さんを睨みつけられたまま、叫んでいる。
猫神様はというと、驚いている様子はもうなく、むしろ文さんの話を真剣に聞いているようだった。
「もしこのままだったら、私たちの責任なの! どうしてそんなのんきにしてられるの! 私は嫌だ! このままこの状況が悪化したりして、責任を取らされたりするの!」
文さんの言い分はわかる。確かに、もうこの状況をどうにかできるのは、猫神様がこの状況の原因だとわかっていて、その猫神様とも近い関係にある俺たちだけだ。責任もとても重いし、もしこのまま悪化したら、俺たちの責任になるだろう。
もしかすると、みんなから激しく糾弾されることになるかもしれない。
「そもそも、猫神が目覚めなかったら! 私たちと会わなかったら、こんなことにはなってないの! 何で原因のあなたが、そんなにのんきに構えてるの!」
ただ、それは言いすぎだ。
「文さん」
俺は文さんの両手を強く引き、猫神様を降ろさせた。
「それは言いすぎです」
猫神様がいるからこそ、俺だけじゃなくて、文さんだって元気づけられたことがあったはずだ。
バーベキューしたり、図書館に行ったり、畑仕事したり、おしゃべりしたり、花火をしたり、お祭りにも行った。
その思い出を「猫神様に出会わなければ」なんて言って、踏みにじっちゃいけないんだ。それだけは、しちゃいけない。
それに猫神様の無邪気さと明るさに、俺は何度も助けられた。
猫神様と出会ったことを、否定しちゃいけないんだ。
俺はそう思うんだ。
「……じゃあ……正樹くんはこの状況の責任を取る覚悟はあるの?」
文さんは、俺を冷たい目で見た。
「あります。どんな𠮟責でも、罰でも受ける覚悟があります」
俺は即答した。
「猫神様が諦めないなら、俺は絶対に諦めません。猫神様は自分が原因だっていうことを思い出して、でも望んでその原因になった覚えはない。覚えのない自分自身が原因だとわかったこの状況でも、それを自分で解決しようとしている猫神様が諦めない限りは、俺は最後まで猫神様と一緒に動きます」
俺は文さんの手を握りながら、力強く言った。
俺がそう言うと、文さんは徐々に顔の角度を上げた。
そして、少し涙目になっていた。
「……そんなの……そんなの……」
文さんはそう言いながら、俺の手を振り払った。
「もうついて行けないよ!」
「文さん!」
文さんは俺の手を振り払うと、靴を雑に履いて、霧の中へ消えて行った。
「まずいにゃ! 外は駄目にゃ!」
猫神様はすぐに外に飛び出して、文さんのあとを追いかけようとした。
手を振り払われたせいで崩した体制を立て直して、すぐに俺も猫神様のあとを追った。
しかし、猫神様は正門で立ち止まっていた。
「……どっちに行ったか……わからんにゃ……向かいに見える山か……それとも」
もう文さんの姿は霧の中に消えていた。
霧で見えないから、どちらに行ったかもわからない。
「……しまった……俺……ダメなこと言ったか……」
なにか文さんを逆上させることを言ってしまったのではないかと思い、自分の言動を振り返ろうする。
「そうだにゃ。あれはダメだったにゃ」
「あれって……どれだよ」
猫神様は、いつにもなく落ち着いたトーンで話を始めた。
「あんなに強い覚悟と責任感を突然見せつけられたら……文の心が折れちゃうにゃ」
「……!」
確かにそうだ。
俺はもう猫神様と一緒に最後まで頑張ると、決意を固めきっていた。
「文さん……なんだか最近元気がなかった……」
口数も少なかったような気もする。
「そうだにゃ。僕からしてみれば……なんだか文は逃げたがっているように見えたにゃ」
「……」
確かにそうかもしれない。
さっきだって、猫神様と出会ったことを後悔しているという話をしていた。その話を出したのは猫神様と近い関係になってしまって、文さんがこの状況をどうにかしないといけない人物の一人になってしまい、責任が重くなってしまって逃げたくなったから……とも考えられる。
俺だってちょっとだけ弱かったり、もう少し猫神様の状況を深く考えることがなかったら、逃げ出したくなっていたかもしれない。
「俺、文さんを探しに行かないといけない」
「そうだにゃ。僕もそうにゃ」
俺は謝らないといけない。
強く言いすぎてしまったことを。文さんをまるで置いていくかのように、突き放してしまったことを。
そもそも、もっと元気づけるような、文さんを落ち着かせるような優しいことを言うべきだったんだ。
俺の覚悟なんかをあの状況で見せてどうする。
文さんが追い詰められてしまうだけじゃないか。
「俺は駅の方向を探しに行く」
「じゃあ僕はその逆だにゃ」
「迷ったりケガだけはするなよ!」
「もちろん。そっちも気をつけるにゃよ」
俺と猫神様そう言いながら、正門前で別れた。
俺は小走りで、文さんを探すために動き出した。
俺は、暗い薄暮の霧の中を走った。
時折、ひどい臭いが鼻を突いた。
おそらく生き物が川とか、山とかで死んでいるから、その死骸の臭いだろう。
近くに見えた山も、もう肌色になっていた。草木ももう枯れている。
空も霧も、少し赤くなっていた。まるで地獄のような、いや、地獄そのものにこの世界がなろうしているような、そんな雰囲気だ。
綺麗な二岬は、もう二度と見られないのだろうか。
「文さん! 文さん!」
俺は声をかけながら探す。
携帯で電話をかけても、文さんは出なかった。
俺はどんどん家から離れていく。
しかし、文さんは見つからなかった。
足を止めて、ふと周りを見ると、霧の中でも、今自分のいる場所が香澄さんがいる八百屋に近いことに気が付いた。
今は……六時か。ぎりぎり店は閉まっていないかもしれない。
……文さんの居場所に覚えがないか、香澄さんに聞いてみてもいいかもしれない。
そう思った俺は、そのまま商店街へ走った。
「……」
俺は八百屋の前に着いた。
「うわ……この天気で来るとか正気かよ……」
香澄さんは、空の瓶ケースに座り、携帯を触っていた。
「正気じゃないかもです」
「……あっそ……」
香澄さんは俺をじっと見つめていた。
「なんかあったのか……まあいい。焦ってるのかもしれないけどさ、お前今汗だくだし、ちょっと休んでけ。ほら、ここ座っとけよ」
香澄さんは俺の顔を見るだけで、ある程度雰囲気を掴んだのか、俺を落ち着かせるために、香澄さん自身が座っていた瓶ケースに座るように言ってきた。
香澄さんは立ち上がると、店の奥へ入っていった。
座りながら待っていると、香澄さんが緑茶を大きなコップに入れて、持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
「いいって」
俺はその緑茶を一気に喉に通した。
「変だよな~この天気。おなかも空かねえし、眠くもないし、便秘だし、性欲もねえ」
香澄さんは独り言のように言った。
「それで? なにか用かよ?」
香澄さんは俺に尋ねてきた。
「文さんとちょっといろいろあって……文さんが家を飛び出してしまって……」
「ああ……なるほどな」
香澄さんは、思ったより冷静だった。さすがに少しくらいは驚くかなと思っていた。
「もしかして、無理させたか?」
「あ……そういえば香澄さん……そんなこと言ってたような……」
「あ~あ。無理させたんだな」
「……はい」
確か、ここに初めて来たときに、香澄さんに耳打ちでそんなことを言われた気がする。
「詳しいことは本人から聞いてほしいけど、文はとにかくちょっとメンタルが弱くてな。それにメンタル弱いせいでずっと昔のことを引きずっててさ、そのせいでいろいろな……」
「なるほど……そうだったんですね」
言われてみれば、台風が来てからずっと文さんの精神は不安定だったような気もする。
俺に対してドキドキしたりするようなことを言ってみたりしてたのも、その不安を振り払うためだったのかもしれない。
ほ、本心でそういうことしてたこともあるって……思いたいけど。
「そ、それでこういう時に文さんが行きそうな場所……知りませんかね」
「なるほどね……どこだろ。人に迷惑かけたがる奴じゃないし、人の家は多分ねえだろうしな」
香澄さんは、瓶ケースの上で腕を組んで考え始めた。
「お前も思い出せよ。いろいろ文と回ったんだろ? なにか心当たりでもあるんじゃねの?」
「そうですね……」
俺も香澄さんのような体制で、頭を回し、今までの二岬での思い出を振り返る。
文さんと出会って……ここに来たりダックスに行ったり……家での思い出もある。でも家は今は関係ない。
ほかには……祭りにも行った。猫神様も含めて三人でいろいろ回って……その後は猫神様が俺たちを二人きりにさせてくれて……それで二人で花火を見た……。
「ああああ!」
「うわびっくりした。声でっか」
「ああ。すみません」
俺が叫ぶと、香澄さんがうるさそうに耳を塞いでいた。
「商店街だ~れもいないから響く響く」
「自虐しないでください……」
香澄さんはわざとらしく商店街の自虐を言った。
「見つけたんだな。心当たり」
香澄さんは、ニヤッとしながら俺に聞いてきた。
「はい。本当にありがとうございました」
俺は香澄さんに頭を下げた。
「いや、いいって」
「いや、ほんとに香澄さんがいなかったら、ずっとがむしゃらに探し続けてたかもしれません」
香澄さんがいたからこそ、俺は落ち着いて頭を回転させることができた。
香澄さんには感謝しかない。
「ああもう! さっさと探しに行け!」
「はい! ありがとうございました!」
俺は香澄さんにぶっきらぼうに背中を押され、また霧の中に向かって走り出した。
目指すは……文さんと花火を二人きりで見た、俺と文さんしか知らないあの場所だ。
俺は、商店街から家の方向へ走っていき、そのままダックスがある方向へ走っていく。
家からは大体歩いて三十分ぐらいの距離だろう。俺はそこを目指して走っている。
周りは畑。しかし、畑は霧で手前までしか見えない。それに畑も枯れていて、もう何も収穫ができなくなっているだろう。
そして俺の視界には、徐々に目的地の影が浮かび上がってきた。
小さい小屋みたいなその端に、バスストップ。
文さんと初めてダックスに行ったときに教えてもらった場所。
文さんと花火を二人きりで一緒に見た場所。
俺と文さんしか知らない、秘密の場所だ。
バスストップが近づくと、俺は走るのをやめて、歩いた。
そして近づいていくと、バスストップのベンチに人影が見えた。
「……やっと見つけた……」
「……正樹くん……」
ベンチに座っているのは、俺が探していた人物。
早瀬文だった。
「……!」
俺は、彼女を認識するとすぐに体が動いてしまっていた。
すぐに文さんに飛びつき、抱きしめた。
「ちょ……」
俺は何も言わずに、無言で文さんを抱きしめ続けた。
文さんは抵抗する様子はなくて、力なく脱力をしている感じだった。
「もう……心配したんですから……」
俺は文さんを抱きしめるのをやめてから、ちょっと涙声になりそうなのをうまくごまかしながら言った。
「ごめん……嫌いになったでしょ? あんな急に癇癪起こしてさ……」
文さんは俯きながら言った。
「そんなことはないです」
俺は文さんにそう伝えると、少しの沈黙の後、文さんはまた話し始めた。
「私さ……その弱くてさ……たまにエネルギーが切れたり、追い詰められるとこう自分を抑えられなくなっちゃうんだ」
文さんは涙を流し始めた。
「それでね、そのせいで友達とかも……少なくて……急に怒る私を見て、どっかに行っちゃうから……」
文さんは肩を揺らして泣き始めた。
普段の文さんは、とても明るくて優しい。人間的に満点に近い存在だ。
だからこそ、そんな追い詰められたり、癇癪を起こす文さんを見ると、普段とのギャップでびっくりして、より人が離れて行ってしまうのだろう。
例えるなら、不良がいいことをすると、すごい褒められて、いい方向性でギャップが働くように、その逆で普段明るい文さんが、機嫌が悪いところを見せると「ああ、本当はそういう人なのね」と、悪い方向性でギャップが働いてしまうということだろう。
別に、癇癪を起こしている方の文さんが本性というわけではないはずだ。
しかし、人は他人の悪いところを見ると、どうしてもそこを本性だと思ってしまう。
ただ明るい文さんも、自分を抑えられないときのちょっと悪い文さんも、どちらも文さんだというのに、悪いほうの文さんを見て、それが本性だと思ってしまうのは、仕方ないことだ。
でも、俺はそんな文さんの自分を抑えられないところを見ても、文さんを嫌いになることはなかった。
だって、今まで文さんのいいところをいっぱい見てきたから。
そんな程度で嫌いになるわけがない。
「そのせいでね、追い詰められないように、なんか逃げる癖みたいのが付いちゃって……友達を作ることからも逃げてたし……責任からも逃げてた」
文さんは、ひっくひっくと泣きながら、一生懸命話している。
「そんな弱い私が、お母さんの仕事を引き継げるのかとかさ、猫神様とかこの天気をどうにかできるのかとか……いろいろ考えたら……もう逃げたくなって……あんなんになっちゃった」
そもそも、機嫌が悪くなることくらい、誰にでもあるだろう。
機嫌が悪くなることがない人は、いるかもしれないが、そんな人ですら、心の底では何を考えているかなんてわからない。口や顔に出していないだけかもしれないし。
何度でも言う。俺は普段の明るい文さんはもちろん、そんなちょっとダメなところがある文さんも、大好きなんだ。
愛したいって思うんだ。
「……やっぱり嫌いになった?」
俺がそんなことを考えながら、文さんを見つめていると、文さんはそう言った。
俺は首を横に振った。
そして、俺は勇気を出して、言葉を紡いだ。
「やっぱり好きです。痛いくらいに好きです。文さんのことが。どうしようもなく好きだ」
「……!」
文さんは、俺がこのバスストップに来てから、初めて俺をしっかりと大きな綺麗な目で見てくれた。
「さっきみたいにちょっと機嫌悪くなっちゃう文さんも、普段の明るくて優しくてかわいくて、それでお茶目な文さんが俺は大好きです」
ちょっと唇が震える。
話している時も、本当に言っていることは正しいか、不安になる。
俺がそこまで言うと、文さんの肩を持っている俺の両手を、文さんは優しく取って握ってくれた。
「すっごく震えてるね」
「……す、すみません……カッコつかなくて……」
俺の手は、無意識のうちに震えていたらしい。
文さんは撫でるように、俺の手を握ってくれている。
「いいの。また思い出しちゃった。正樹くんがまだ高校一年生だってこと」
文さんは微笑んだ。
「ありがとう。とっても嬉しい。勇気を出して、一生懸命に気持ちを伝えてくれて」
文さんの顔が徐々に赤くなっていく。
俺の顔もきっと、文さんの顔みたいに赤くなっているだろう。
「はあ。こんなに純粋な年下の男の子が、しかもかっこよくてちょっと気障なこともできちゃう男の子が、都会からこっちに来て、しかも一か月一緒の家で過ごす?」
文さんはちょっとわざとらしく話している。
「そんなの、好きになっちゃうよ」
「……文さん」
文さんの気持ちを確かめることが、これでできたはずだ。
文さんから、いい返事がもらえて、俺はとても嬉しかった。
「えっと……じゃあ……お付き合い的な……あれ? こっからどうするんだ? お互いの気持ちはわかって……」
俺は、ここからどうしたらいいのかわからなかった。
好きって伝えあったはいいけど……これはどうすればいいんだ?
もうお付き合いしてるのか? 文さんはもう彼女なのか?
全く経験がないからわからない。
「あはは! 本当に恋愛経験なさすぎ! その顔でその感じだと、本当に詐欺だよ詐欺!」
文さんは元気よく笑った。
少しの間、文さんは笑い続けてから、また優しい顔になった。
「これからもよろしくね正樹くん。恋人としてね。」
「は、はい! よろしくお願いします!」
俺と文さんはそう言ったあと、少しの間見つめあって、それから俺は文さんに首に腕を回されて引き寄せられて、また文さんを抱きしめた。
文さんの体は暖かくて、ここだけまた夏の雰囲気が戻ってきたと錯覚するほどだった。
その後、ベンチに座り、霧に包まれた景色を見ながら、文さんと話をしていた。
俺の右手は、文さんの左手と結ばれている。
「ねね……ホントに私でいいの~?」
「だから……いいに決まってるじゃないですか」
「ホントに~?」
「もう……うるさいなあ……」
「えへへ……」
文さんはさっきから何度も何度も、私で本当にいいかどうかを尋ねてくる。
いいに決まってるのに。
「文さんが俺と一緒に過ごして、そんなの好きになっちゃうって言ってたみたいに、文さんとひと月一緒に暮らしたら、そりゃあ俺だって好きになっちゃいますよ」
「そっか。嬉しいな……」
文さんはずっと俺を見つめてくれている。
そんな俺は、文さんとずっと目が合っている。
「どうしよっかな……」
「どうしようって……なにが?」
「え? だって正樹くん……純粋だからその……エッチなこととか何にもわかんないでしょ? どっから攻めればいいかなってさ」
「わ、わかります! そういうことくらい!」
「ええ~ほんとかな~」
文さんは苦笑いをしながらそう言った。
俺だってそういうことの一つや二つぐらいわかる。
友達がそういうインターネットサイトを見て、お金を請求されて親に怒られた話とか、そういったことはわかるし、道端に落ちてたそういう本を俺はチラッと見たことだってある。
「だって、うちのお母さんが寝るときに耳栓するかしないかの話をした時も、何のことかわかってなかったくせに」
「え……ああ……あったような……」
その出来事は覚えている。なんたって、文さんがお風呂上がりのところを、俺が見た直後にした会話だったからな。
「うるさいからじゃないんですか?」
「……まあ、半分正解」
「半分?」
「うん」
「じゃあ、正しい正解は?」
俺が尋ねると、文さんは小さくささやくように言った。
「夜、エッチな音でうるさいから、気を使って耳栓しようかってことだよ」
「……」
俺は片方の口角だけが上がった。
変な汗が出てくるのがわかる。
「一緒にいろいろ勉強しようね?」
「は、はい……」
文さんは俺の顔を上目遣いで見てきた。
俺……本当に大丈夫かな……。
そう思いながら、俺は遠くをまた静かに見始めた文さんの顔を眺めている。
文さんの表情はいつも通り、落ち着いていた。
……なんか……いろいろおちょくられたような気もするし、俺からもやっちゃおうかな。
「文さん」
俺は文さんを呼んだ。
「なに……」
俺は文さんが降りむくと同時に、額を付けた。
「わ!」
「ふふ。かわいいですね。文さん」
俺は文さんの赤くなる顔を見て、うまくいったと思った。
顔を放してから、文さんは真っ赤な顔で口を開いた。
「もう……どこで覚えたのそんなの」
「漫画とかドラマとかで、イケメンがやってました」
「えへへ……そっかあ……」
文さんは頬を掻きながら柔らかく笑った。
「……そろそろいこっか」
「そうですね」
あたりはもう真っ暗だ。
それでも、スマホのライトを頼りに、文さんと一緒に慎重に進めば大丈夫なはずだ。
「じゃあ、最後に確認!」
「な、なんですかね」
文さんが立ち上がり、俺も立ち上がると、文さんは元気よく言った。
「私、弱い頼りにならない年上だけど、本当に彼女にしてもらっていいの?」
「もちろん」
俺はすぐに返答した。
「じゃあ、癇癪起こしても平気?」
「そうですね……」
俺は少し考えてから、できる限り笑顔を作ってから、口を開いた。
「キスで黙らせます」
「へへへ。それ少女漫画でしか見たことないけど」
文さんは笑ってくれた。
「俺はその黙らせ方しか知りません」
「そっか……」
文さんは、少しだけ視線を上にした。
そして、もう一度俺を見た。
「じゃあ、黙らせてほしいな。試しに」
……文さんは顔を赤くしてそう言った。
俺は無言で頷いた。
落ち着け。文さんとなら大丈夫。
俺はそのまま、少し屈んで文さんの肩を持ちながら、唇を重ねた。
文さんの肩に置いた手が少し押し上げられた。
あったかくて、柔らかくて、優しくて甘くて、安心してしまう口づけだった。
まるで、好きという気持ちが、口から体中を回るようだった。
お互いに顔を離すと、文さんはぼんやりとした目で俺を見ていた。
「あの祠でした願い事。叶っちゃった」
「そういえば、俺も叶いましたよ」
文さんが俺の胸元に手を置いたまま、俺たちは話している。
「教えてくれない? その願い事。教えてくれたら、私も教えてあげる」
「俺はですね。恋愛できますようにってお願いしました」
俺は文さんに尋ねられて、優しく文さんに言った。
「私はね……」
文さんは、俺に体重をかけながら、楽しそうに言ってくれた。
「正樹くんに好きになってもらえますように、ってお願いしたんだ」
文さんがそう言うと、少しだけ暖かい夏を感じさせる風が吹いたような気がした。
まるで世界が元に戻ったのかと、またあの俺が二岬に来た頃の暑い夏が戻ってきたような気がした。
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