第5話 猫神様の夏休みのはじまり
次の日。
四日。
今日もラジオ体操はない。日曜日だからである。
今日も朝起きて、洗面台で顔を洗い、軽く髪を整えてから、仏壇にいる文さんの父と祖母に手を合わせた。
仏壇に手を合わせることは、四日目にして習慣になっていた。
それからは、連日外出をしていたから、たまには家に居ようというということで、文さんと俺の部屋で一緒に勉強をしていた。文さんの勉強の様子から頭がいいことが窺えた。恐らく受験で使うであろう英語の問題をすらすらと解いていた。
「ん~、疲れた~」
文さんは、勉強を始めて三時間くらいで、体を伸ばし始めた。
現在時刻は午後の四時。そろそろ夕方だ。
「ねね、うちの裏にさ、山があるんだけどさ」
「はい。行きたいんですか」
「うん!」
文さんは笑顔で頷いた。
「正樹くんは知らないかもだけど、裏山には願いを叶えるって噂されてる神様がいる祠があるんだよ。そこに連れて行きたいんだ」
「へえ」
そういった伝承みたいなものは、田舎によくあるイメージだ。
「有名なんですか?」
「全然? ここら辺の人しか知らないかも。祠も小さいし。祠とその周りに猫の像がいくつかあるだけ」
「へえ……」
俺は机の上にあるオレンジジュースが入ったコップを取り、オレンジジュースを飲んだ。
「その噂って、誰から聞いたんですか?」
「えっと……わかんないや」
文さんはドジっ子みたいに、自分の頭に握りこぶしを軽くぶつけた。
「でも、お母さんは知ってるし、うちの周りの人は結構知ってるよ」
「……不思議ですね。ちょっと興味が湧いてきました」
そんな局所的にしか認知されていない神様という特異性に、俺は惹かれていた。
こういう噂は、加速的に広まってもおかしくない。なのに、この近辺にいる人しか知らないというのは、少し気になる。
「ほんと? じゃあ、今から行こう! ほら、準備して」
文さんはそう言うと、俺の腕を引っ張り立ち上がらせた。
「わ、引っ張らなくても行きますよ」
文さんの体が、俺の腕に強く当たった。
柔らかくて、ちょっと体がびっくりする。
「ほら、行くよ」
俺はそういう文さんに腕を引かれながら、外に出るために縁側に向かった。
「山と言っても、軽く道みたいなものはあるんですね」
俺たちは裏山に入った。
裏山の出入り口は、家の横の小道にあり、目立たない位置にあった。そのため、この近辺の人しか、この小道があることは知らないだろう。
山の中では、セミがうるさく鳴いていて、山特有の昆虫くさいにおいが少しした。
「そうだね。多分、私のおじいちゃんおばあちゃんが結構出入りしてたみたいだから、その時にできたんだと思うよ」
文さんは、少し前を歩きながら話してくれている。
「文さんのおじいちゃんおばあちゃんから祠の話を、美文さんが聞いていないんですかね? 出来た経緯とか」
「うん。聞いてないっぽい。でも……」
文さんは、少し足を止めて、俺のほうをチラッと向いた。
「おばあちゃんは特に、この山に出入りしていたみたい。何をしているのか、まったくお母さんも知らないみたいだけど」
「……ますます謎めいてますね。この山で食材とか採れたりとかは?」
「う~ん。採れるとは思うけど、おばあちゃんは全くそういう知識はなかったはずだし……」
「じゃあなんでここによく出入りを……それこそ祠に来るためですかね?」
文さんは、先行して山を五分ほど登ったところにある、少し開けたところで止まった。
「そうかもね。まず、祠のできた時期もわからないんだ。誰がなんのために作ったのかもわからない」
俺も文さんのいる開けた場所にたどり着いた。
登ってきた方向から右を見ると、木々の隙間を縫うように、猫の像が道の両端にあり、その奥には祠があった。
なんだか神秘的な雰囲気を感じた。
「これですか」
「うん」
文さんが歩き出したので、俺も祠に向かって歩き出す。
「ほんとに、祠と猫の像しかない……」
「不思議でしょ? こんなちっぽけな祠で、願いが叶えられるのかって話だよね」
祠に近寄り、近くで見て見ると、祠には古びた瓶のようなものが置いてあった。
「誰か、昔ここに来ていたみたいですね」
俺は瓶を見ながら言った。
「うん。ずっとあるんだよねこれ。掃除したほうがいいのかなとか思いながら、私も何もしてなくて……」
文さんは苦笑いしながら、祠をじろじろ見ている。
この様子だと、数十年前ぐらいまでは、祠に定期的に来ている人間がいると考えられる。
「えっと、一応、手を合わせてみますか。願い、叶えてくれるかもしれませんし」
「あ、うん」
俺が文さんに提案すると、文さんは頷いてくれた。
その後、俺は手を合わせようとした。
すると、文さんが俺に少し近づいて話しかけてきた。
「何お願いするの?」
「え……えっと……」
願いを叶えてくれるかもしれないと言ったものの、別に願いなんて咄嗟に思いつかない。
……そうだな。高校生にもなったんだし、色恋沙汰の一つくらいあってもいいだろう。
恋愛できますように……とでも願ってみるか。
「内緒です」
ただ、そんな恋愛できますようになんて、文さんには伝えられないので、俺はごまかすことにした。
「え~。暇なので早く帰れるように……とか願わないよね?」
「願いません。文さんがいれば、暇しないってことが、ここ数日で証明されてます」
俺も負けじと、文さんに顔を近づけて、人差し指をぶんぶんと振りながら言った。
「えへへ。そっか」
文さんは、少し照れながら笑ってくれた。
「文さんは? 何をお願いするんですか?」
「正樹くんが内緒なら、私が君にお願い事を伝える義務はないんじゃないかね?」
「む。そうですね」
文さんはウインクしながら言った。
確かにそうだ。俺が内緒にしているんだ。言う必要なんてないだろう。
「じゃあ、お互い内緒ということで」
「そうだね……よし」
よし、と言うと文さんは目をつぶって、手を合わせた。
俺も、同じく目をつぶって、手を合わせる。
俺はさっき思いついた願い事を、心の中で繰り返し言った。
恋愛できますように。恋愛できますように。
願った次の瞬間、寒気がした。
夏なのにもかかわらず、セミが鳴いているにもかかわらず、ありえない寒気が強い風に乗って吹いてきた。
「え、寒っ!」
「ちょ、なんで!」
祠に吸い込まれてしまいそうな、あまりにも強い追い風だったので、俺は、咄嗟に文さんを庇おうと、肩を抱いて自分の近くに寄せてしまった。
「わ! そんなすぐに願い叶っちゃうの⁉」
「え?」
俺が文さんを庇おうと抱き寄せると、文さんは少し顔を赤くして大きな声で話していた。俺は文さんが何を言っているのか、意味がわからなかったので、聞き返そうとすると、また風が強くなった。
「わ!」
「きゃ!」
俺は立膝をついて、寒い風に吸い込まれないように、文さんを庇うために体を固定する。
相変わらずセミの声は聞こえる。明らかに夏。
それなのに、とても寒い風が吹いている。
それから数秒、耐えていると風は何もなかったように急に収まった。
「収まった……?」
「みたいですね……」
俺は周りの状況を確認した。
すぐに夏の熱気が肌に触れた。さっきまで寒い風が吹いていたせいか、より暑く感じる。
「あ」
「あ……」
俺は周りの状況を確認すると、文さんと抱きしめあっていることを理解した。
俺はゆっくり、でも恥ずかしさから気持ちは手早く、文さんを放した。
「す、すみません!」
俺はきっと嫌がられたと思い、文さんに謝った。
「い、いや、別に……」
文さんは少し顔を手で隠しながら言った。多分、照れているのだろう。
「……はあ……人の祠でイチャイチャしないでもらいたいにゃ、人間」
……。
俺たち以外誰もいないはずなのに、なぜか俺と文さん以外の声が、祠の上から聞こえた。
その声の方向へ、俺は目線を向けた。
一見、タダの人のように見えるその人は、白い着物に身を包み、宙に浮いていた。
頭には猫耳のようなものが付いていた。また、首輪みたいなものが首に付いていた。
俺より少し年下のように見える。中学生くらいだろうか。
美少女にも美少年にも見えてしまうような、そんな綺麗な見た目をしていた。
その人はふわっと、俺と文さんの前に降りてきた。
「……なんか言えにゃ」
その人は口を開いた。
「……だ、誰なの? 祠にお願いしたら急に寒くなって……いったい誰なんだい?」
文さんは、恐る恐るその人に話しかけた。
「う~ん? 多分ここの祠の神だにゃ」
その人は違和感なく語尾に「にゃ」をつけている。
「神って……そんなの信じられるわけないけど」
俺はその神と名乗る人物に言い放った。
「じゃあ、さっき浮いていたのはどうやって説明するんだにゃ? なんならほら、好きに浮けるにゃよ」
そう言いながら、まるで見せびらかすように、その神は浮かび上がった。
羽ばたいているというよりは、飛び立っていくというよりは、ふわーっと浮かび上がった。
「……」
「はえ~……」
俺と文さんは、浮かび上がるその神を見て、あっけに取られた。
「信じてくれたかにゃ?」
その神は降りてきた。
「それで……僕もわからないことがあるから、二人とゆっくり話がしたいのにゃ。こうやって人の前で実体化できるようになったのは、多分お前らのおかげだからにゃ」
その神はそう言いながら、腰に手を当てて、偉そうに言った。
「えっと……」
俺は文さんにすべての判断を委ねることにした。
自由に浮遊したり、あの急な強い風と寒さの中から出てきたところを考えると、本当に神様の可能性だってある。
それに、この神様が言うように、向こうが俺たちに聞きたいことがあるなら、俺たちだって聞きたいことがあるだろう。
ついでに、この土地に長らく暮らしていて、昔から祠の存在を知っているのは、文さんである。
だから、俺は文さんに判断してもらうことにしたのだ。
俺は文さんの目を見て「文さんが決めてください。ずっとここに暮らしているのは、文さんなんですから」と伝えた。
「う~ん。そうだね~……」
文さんは、悩みながら神様の周りをグルグル回りながら、じろじろ観察し始めた。
「な、なんにゃ?」
その神は戸惑っているようだった。
文さんは、最後にその神の顔を見ると、強く頷いた。
「なんだか君、かわいいから、家でゆっくり話そっか!」
「やったにゃ! ほら、早く家に案内してくれなのにゃ!」
文さんはその神を、家に案内することにしたようだ。
その神は、かわいくその場で大きく両手をあげて喜んだ。
ちょっと動機に犯罪臭がするけど、まあいいだろう。
「ほら、じゃあこっちだから。正樹くんも遅れないでね」
「あ、はい」
俺は先頭を歩く文さんに連なって、歩き始めた。
自称神様は、山を下っている間、ずっと文さんに質問攻めをしていた。
……本当にこの自称神様は、神様なのだろうか?
それ以外にもいろいろなことを考えながら、俺は綺麗な神様の真っ白な着物を、なぜか注視してしまっていた。
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