第11話

「ベンチ入りメンバーをもう一人登録しませんか」

 アクシデントに備えて、男子生徒の名前で結羽を「選手として」ベンチに入れる。無理筋だと分かっていての提案は、意外にもあっさりと受け入れられた。マネージャーの枠を超えて部員のような扱いでありながら、記録員以外の女子が公式戦のベンチに入るのは認められていない。せめて選手同様ユニフォームを着てベンチに入る機会を、と考えてくれたのだろう。とはいえ虚偽登録がバレたら相応の処分が下されるのは間違いない。監督はさすがに諒解しないだろうと諦めつつ話を持って行ったのだが、これまた拍子抜けするほど簡単に容認された。やっぱりあの人は、教師らしくない。

 それ以降、結羽は頻繁に俺たちの練習に交じってノックやピッチングなどをこなしてきた。試合中の結羽は、スコアの記入や飲み物の準備などマネージャーとしての仕事をしていた。しかし、実際には背番号10をつけて選手を装っていたのだ。髪を短く切り、顔がよく見えないように帽子を目深にかぶり、一言も声援を送らず。ゆえに試合前に提出したメンバー表に、記録員の名前はない。ベンチ内にいるのは監督を含めて総勢十一人。選手二十人に加え、監督・部長・記録員と枠を余すことなく使い切っている加地工ベンチの半分以下の人数だ。

 ちなみに当然のことだが、本物の戸倉はスタンドにいる。常識外れの頼みを二つ返事で引き受けたばかりか、わざわざ球場まで足を運んでずっと応援してくれているのだから、いいやつだと思う。今だって大声で、

「頑張れ戸倉! 俺がついてるぞー!」

 ……自分の名前を呼んでどうする。前言撤回。やっぱり面白がって乗っかっただけかもしれない。

 俺は投球練習を終えた結羽のもとへ向かう。身長だけなら小柄な男子で通る結羽だが、どうしても細い身体の線を隠すため、サイズのひとまわり大きいユニフォームを着ている。

「久しぶりだな」

「まさか、本当に出ることになるなんてね。それもピッチャー」

「何が起きるか分からないよな、野球って」

「そうね」

 結羽は表情も口調も普段と変わりなく淡々としているように見える。だが、俺にはなんとなく違和感があるような気がした。

「緊張してるか?」

「別に」

「ボタンとれてるぞ」

 胸元を示してやる。結羽は急いでボタンを留めなおすと、小さく息をついた。

「──まあ、まったくの平常心と言えば嘘になるかもね」

「お前が緊張してるところなんて初めて見たな。これだけでも、野球部に入った甲斐があった」

 俺の軽口に、結羽は唇を尖らせた。

「巧実こそ、やけに落ち着きすぎなんじゃないの」

「さっきの打席でさんざん味わったからな。今日の分は売り切れだ」

 さて、あまり長く話し込んでいると審判に怒られる。

「肩はできてる……わけねえよな」

 投球練習の八球だけではいくらなんでも足りない。試合前の練習で身体は動かしていたが、試合中ずっと座っていたのだ。せめて芳賀さんが投げてる間にキャッチボールでもできればよかったのだが、残念ながらうちにはボールの受け手がいない。

「緊急登板なんて、高校野球じゃよくあることでしょ。心配しなくても、肩が温まるのは早いほうなの」

 結羽は左肩を回してみせた。

「信じるぞ」

「望むところ。……それから、今日は首を振らない。巧実のサイン通りに投げるから、わたしを気にせずリードして」 

 俺は声に出さず笑った。

「元からそのつもりだよ。だが、俺のサインで打たれると思ったら遠慮なく首を振ってくれ。配球は一人でやるもんじゃない。バッテリーの共同作業だろ」

「分かった」

 結羽は素直に首肯し、肩口の高さに上げた拳をこちらに伸ばした。俺も拳を差し出し、軽く打ち合わせる。小学生時代、登板前に決まって交わしていた動作だが、高校のそれも公式戦で行う日が来るとは想像もしなかった。

 無死一塁で、九番の古森を右打席に迎える。途中出場ということで九番に入っているが、侮れない打撃力の持ち主だ。特にここは、自らの失点を取り返そうと気合が入っている。 

 俺は初球に外角のストレートを要求する。初球はまず見送るだろうと確信があった。プロでも希少な左のサイドスローとの対戦経験はほとんどないはず。ただでさえ未知数の相手に対し、いきなり打つのは勇気が要る。こちらとしては、その躊躇につけこんでストライクを先行させたい。

 読み通り、古森はスイングの意志すらなさそうに見逃した。結羽のストレートは、高校野球どころか中学硬式でも見劣りする。球速だけなら芳賀さんの変化球のほうが速い。しかし結羽の真骨頂はスピードではない。球速を捨てて磨いた出どころの見えづらいフォームとコントロール、変化球があいつの武器だ。

 足を上げ、背中を打者に向けて腕の振りを隠す。身体の陰からいきなり腕が出てくることで打者の始動を一瞬遅らせ、タイミングを外す。この変則フォームから放たれた二球目は、初球と同じコースに同じ軌道で向かってきた。追い込まれたくない古森は当然打ちにいくが、ボールはいきなり外側へと逃げる。バットの先端に当たってファウル。結羽はシュートと呼んでいるが、曲がりながら沈むのでシンカーに近いかもしれない。

 二球で追い込んだが、遊び球を使うつもりはない。打者が焦っているうちに決める。

 ストレートと同じ腕の振りで投じられた三球目は、どろんとした山なりの軌道を描き、真ん中から膝元へと落ちてきた。ストレートよりさらに遅いスローカーブに古森のバットは止まらない。自分が幾度となくそうしてきたように、彼は緩急でタイミングを外されて崩れた体勢で空振りした。

「ワンナウト!」

 打ちにくい変化球には二種類ある。芳賀さんの投げるカットボールのように、ストレートに球速が近く、見分けが難しいボール。そしてもう一つは、ストレートとの球速差が大きく、タイミングを取りにくいボール。直球に近いシュートと遠いスローカーブ。両方を兼ね備えている結羽は、捕手にとっては剛腕よりもリードしがいのある投手だ。

 一死一塁。ランナーの足は遅くない。今の三振で、向こうの監督が連打は難しいと感じたなら、盗塁を仕掛けてくるかもしれない。結羽の球速と俺の肩では、走られたら防ぐのは難しい。   

 牽制球を挟み、一番打者に対して初球スライダーでボール。盗塁を試みるならここという二球目で、結羽は不意に足を上げないクイックモーションで投球した。意表を突かれたランナーはスタートできず、カウントは1―1となる。三球目は内角への直球。ボールになったがこれは要求通り。内角を意識させたうえで、ボールゾーンから外角いっぱいに入るスライダーを打たせ、ライトフライに仕留めた。

 ツーアウト。

 勝利を意識するなと考えるほど、あと一人という言葉が脳内に渦を巻く。冷静になれ、目の前のバッターに集中しろ。そう言い聞かせるが、鼓動は明らかに速くなっていた。きっと守備につく全員が、いや、スタンドにいる戸倉たちや、あるいは監督までも同様の精神状態になっているかもしれない。

「ツーアウト!」

 ナインに声をかけた俺は、つとめてゆっくりとマスクをかぶり、サインを出す。

 二番打者にはすべて変化球で攻める。ツーアウトだから、盗塁を気にするより打者を打ち取ることに集中するべきだ。2―2からのシュートは低めに外れていたが、打者は手を出してきた。よし、と心中呟いた俺だが、流し打った打球は詰まりながらもショートの頭上を越え、レフト前に落ちた。

 芯を外しても、高校生には難なく内野の頭を越えられてしまう。絶対的な球威の不足、球の軽さは、サイドスローに転向してなお重くのしかかる。

 三塁側から大歓声が上がる。一打同点の局面に、悲壮感が漂っていた加地工がにわかに活気づいてきた。押せ押せムードの相手ほど怖いものはない。何点差があろうが、流れに乗った打線はときに信じられない逆転劇を演じる。

 右打席に入るのは三番鶴村。今日二安打を放っており、高見ほどの長打力はないがミート力に優れ、空振りが少ない。芯を外されてもボールをヒットゾーンへ運ぶ上手さと粘り強さがあり、一点もやりたくない場面では高見以上に相手にしたくない打者だ。

「楽にいこう! バッター集中!」

 ベンチでは、芳賀さんが懸命に声援を送っている。怪我をしながら逆転のきっかけを作り、それによって最終回のマウンドを降りなければならなかった。あの人の願いを、二年間の野球同好会の悲願を、一年生の俺たちが背負っている。胸に広がるのはプレッシャーじゃない。この夏を終わらせないという闘志だ。

 マウンドで短い打ち合わせをする。中学時代、サイドスローに転向しながら報われなかった結羽。慣れない投法で変化球や制球力を身につけるため、どれだけ努力を重ねたのだろう。おそらく、今後結羽が公式戦で登板できる機会はない。奇跡的に実現した一度きりのマウンドを、不本意なものにしてたまるか。

「さあこい!」

「ツーアウトツーアウト!」

 自分たちの存在を投手に伝えて安心させるかのように、内外野が声を上げる。

 第一球、ストレートが高めに外れた。

「楽に楽に。抑えて抑えて」

 俺は低めを促す仕草をしながらボールを返す。外野はバックホームに備えて前進、内野は定位置。

 セットポジションから第二球。内角膝元へのスローカーブを鶴村がはじき返し、三塁側への強烈なファウル。結羽の球速なら、ストレートを待ちながらカーブに対応するだけの技術はある。やはり、単純な緩急だけで打ち取らせてはくれないらしい。

 大した球数を投げていない結羽の額に汗が光るのは、長袖のアンダーシャツのせいばかりではないだろう。

 三球目もスローカーブで、外角に外れてボール。ここまでは予定に狂いなく進行してきた。打者有利のカウントにしたのは意図的だ。緩い球を続けた後はだれしも速球を予測するだろう。次がストレートなら確実に打ってくる。決めるならここだ。

 俺はサインを出し、最後に右膝に手を置きながら頷く。それは打ち合わせで決めた合図。

 ──頼むぞ、結羽。

 結羽がセットポジションに入る。ちらりと二塁走者を見て、ゆっくりと足が上がる。テイクバックの見えないフォームから、白球が投じられた。

 ボールは打者から最も遠い地点で指を離れ、対角線上を通過して内角へ食い込んでくる。

 クロスファイア。

 広義には投手の利き手と反対の側へ投げるストレート全般のことだが、一般的には左投手が右打者の内角へ、対角線を通過する軌道で投げ込むボールを指す。特にサイドスローからのクロスファイアは、通常より鋭い角度で打者の懐を突く。

 狙っていたストレートに、鶴村が反応する。結羽のストレートは、本来いくら角度をつけようと脅威にはなりえない。ストレートのタイミングは初球で分かっている。じっくり手元まで引きつけ、シャープに振り抜けば、ミートするのは難しくない。スイングする打者の頭には、そういう計算があったはずだ。

 だが、そのストレートは初球より十キロ前後速い、渾身のまっすぐだった。

 速球へのこだわりを捨てた結羽は、制球重視のためにストレートのスピードを抑制していた。

 最初の高めのボール球は伏線だ。力んでコントロールミスしたような声をかけることで、打者はそれが最速だと思い込む。その上で、今度は本当に全力のストレートを内角へ投げ込ませた。

 リスクはあった。全力投球の分、コントロールが甘くなる可能性は高くなる。だが俺は信じた。サイドスローに転向してから結羽が積み上げてきた努力を。プレッシャーに負けずに際どいコースに投げ切る心の強さを。

 傍目には遅く見えても、球速が想定以上ならそれは快速球となる。振り遅れた打球は真夏の青空へ高々と上がり──。

 後退したセンターの、黒いグラブの中に収まった。

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