6話目――実食――

 栓を開けっ放しにした浴槽は肉の欠片や脂肪で詰まってしまった。何も流れなくなって、血だまりができている。

 ブロック状に解体した岡本は一日で食べられるか分からない量だった。これがいつ泡になるのか分からない。骨や爪、髪など食べられるのか分からない部分は置いておいて、とりあえず肉を食べることにした。食べることなく霞のように消えるかもと思うと、気が気でなかったから。

 血に浸された肉を取り出して、噛り付く。鉄の味がした。目的は食べることであって、味はどうでもいい。ただ漠然とこれが岡本かと思った。肉であることは確かであるが、その味は言語化することのできないもので、今まで食べて来たものの何にも似ていない。何より血の味が強くてよく分からない。人間は大量の血液を飲むと吐くと言うが、人魚の血は何かが違うのかもしれない。

 一塊食べてホッとする。一口も食べることなく岡本が消滅することはなかった。血で汚れた手を舐めて、顔など舐め切れない所は水で軽く洗う。

 一息吐いたら、浴槽の栓に詰まった肉片を掻き混ぜて血を流し、再び詰まらないように洗面器の中に肉片を除ける。シャワーで洗い流すと、血に浸っていた岡本が綺麗になった。

 爪や髪の毛は食べながら必要な時に剥ぐなり剃るなりしよう。骨やこれらが残る物ならば、大事に保管したい。手紙の他、これらも岡本の遺品になるだろう。

 引き続き肉を食う。とりあえず手当たり次第に齧り付き、岡本を限界まで腹一杯に詰める。飲み込めるように何度も何度も咀嚼して飲み込んでいるうちに、顎が疲れ、胃がギュウギュウに苦しくなる。これ以上は吐いてしまうという所まで食べて、一息つく。

 岡本と同じ味の魚が存在するのだろうか。魚の部分も人の部分も今まで食べて来たものの味とは丸っきり異なった。

 人の部分はさほど美味くはなかった。チラリとテレビや本で見たことのある人を食った奴らは美味いと言っていたのを記憶しているが、実際の所美味い不味いなんてものは人それぞれなのだろう。

 魚の部分は淡泊な刺身という感じだ。実際魚であることに間違いないが、それでも不思議な気持ちになる。とにかく食べるしかないから、美味いとか不味いとかいうことは重要ではなかった。食べるために必死で剥がした鱗がそこらに散らかっているのが視界に入る。これらを片付けたら寝てしまおうと思った。

 岡本はまだ大量に残っている。魚の部分は魚を捌くように、人の部分は骨と分けながら解体した。それらをパックに小分けして冷凍庫に詰める。冷凍庫は岡本でみっしりと埋まった。骨と、肉片を片付ける際に剥いだ爪と剃った髪の毛と鱗はキッチンペーパーで水気を取ってベランダに出す。ベランダに出ると外はどっぷりと夜に暮れていた。しばらく置いておけば乾燥するだろうか。歯のことが気になったが、それは頭を食べる時に考えよう。

 岡本を殺して一日目は、魚肉と人肉をまんべんなく食べてから寝た。布団に入ってからふと、血を残して置かなかったことを少し悔やんだ。


 二日目、まだ日が昇り切らない時間に目が覚める。夜中に大量の肉を食べたせいか、胃が重たくて気持ちが悪かった。右半身を下にしても、調子はすこぶる悪い。

 それでも、岡本を食べなければならない。奇妙な飢餓感に急き立てられ、台所へ向かい冷蔵庫を開けた。

 岡本の死体はちゃんとそこにあった。泡にはなっていない。

 安堵のため息を吐いてからベランダに行く。骨はもちろん、爪や鱗もそのままだ。骨を持って台所へ戻る。

 コンロに火を点け、大量のお湯を沸かす。その中に骨を入れた。きっと良い出汁が取れるだろう。これで料理のバリエーションが増える。

 さすがに一日経った今、どこも生肉の状態では食べられないだろうし、岡本を全て食べ切ると決意した今、魚と人と種類はあれど、飽きて食べられなくなるというようなリスクもなくしておきたい。

 お湯が沸くまでの間にパソコンを立ち上げて、クックパッドのレシピを探す。このためだけにプレミアム会員になったのだ、必ずや岡本を美味しく食べ切る。

 まずは味噌汁を作って、肉を生姜焼きにでもして白飯のお供にしよう。焼き魚でもいいかもしれない。パンを食べる時にはベーコンやハムがあるとよい。人肉でも作れるのだろうか。これも後で調べておこう。

 本格的な料理は追々するとして、岡本の骨を煮込む横で、冷蔵庫から人肉を取り出した。

 一緒に出した小麦粉に絡め、油を引いたフライパンで焼く。

 そうしている間に鍋が沸騰した。中に豆腐とネギを入れて味噌汁を作った。

味噌汁が沸騰しないように鍋の火を落として、生姜をおろしながらフライパンを見守り、肉が焼けた所で生姜と調味料を混ぜてフライパンの中で絡めた。そこそこではあるが調理した岡本は美味かった。

 食器を片付けながら考える。人魚とは元々そういう妖怪がいるのではなく、人がひょんなことからそうなるのではないだろうか。

 人魚はみんな一人で、同じような生き物がかつていたことだけを胸に、ひっそりと孤独に生きる。そうして、うっかり人に見付かった者が目撃情報の厚みになるのだろう。

 そう考えると、少し悲しくなってきた。やっぱり私が岡本を食べてよかったとも思う。

 人は人魚を食べると本当に不死になれるのだろうか。だとしたら少しでも長い間、岡本を食べていたい。

 おはようの挨拶をするように岡本を朝食の卓に並べ、昼も夜も同じようにできたらいい。なるべく長く。

 泡にならないのだとしたら、是非そうしたいものだ。しかし、泡になるのかもいつなるのかも定かでない。なるべく早く食べるしかないのだ。腹の中で泡になってもいい。そもそも食べた物は排泄されるのだ。

 手入れをするように食事を作り、着飾るように皿に盛って、待ち合わせをするようにテーブルに並べ、会話するように咀嚼する。

 本当に自己満足でしかない。もう岡本はいないのだ。頭を痛めて彼の意志をどうこうと汲んだとしても、それは最早岡本の意志ではなく、私の主観的な解釈でしかない。

 それなら、私が心地良いように考えてもいいような気がする。事実として、今の岡本は物言わぬ肉塊でしかない。咎める権利を行使できない。だから、それをどう見立てようが私の勝手なんだ。

 爪は細かく砕いて飲んでしまおう。鱗は何やら装飾品に加工するなどの方法で有効利用できるらしい。これだけは手元に置いておこう。髪の毛や歯も何かになるだろう。こればかりは泡になったらそれまでだ。

 昨晩に引き続き、乾かした鱗を水道水でかき混ぜながら1時間ほど洗う、水を切ってから外に置いて一日かけて乾燥させる。

 蓋のある手頃な容器を探してきて、その中に次亜塩素酸ソーダの漂白殺菌剤と食器洗い洗剤と炭酸ナトリウムを水に溶かして、そこに鱗を浸した。それから6時間毎にかき混ぜて一日置いておいた。

 次の日、水道水で漂白剤臭さがなくなるまで何度も洗い、乾燥させた。魚の臭いがないことを確認してから直射日光に当てて一日乾燥させる。

 鱗の処理の合間、岡本の頭部を解体した。ナイフや出刃包丁やペンチなどを活用して、頬・舌・脳・骨・歯と小分けにしていく。

 脳味噌は食べてもいいのだろうか。クールー病が頭をよぎる。もし食べたらどうなるのだろう。発症後、一年ほどで死ぬとは言っても、私が死ねるのかは分からない。さすがに症状が出た状態で長生き、下手したら不老不死というのは嫌だ。

 一回、全て終えたら実験的に死んでみてもいいかもしれない。それはそれで、病気になった時と同じくらいの不便さが待ち構えているのかもしれないが。

 そんなことを考えながら解体していたが、作業は一日で終わった。

 昼は魚の部分をフライにして食べ、夜は人の部分を薄く切って野菜と一緒に炒めた。それから剥いだ爪をすり鉢で粉々にして味噌汁に混ぜて飲んだ。

 脳味噌のことは後回しにしようと思う。頭蓋骨は肉を綺麗に削ぎ落として洗った。取り切れなかった肉は水酸化ナトリウムで溶かした。薬品を使うのは緊張したが、問題なく洗浄を終えられた。空いた時間に髪の毛を束に整えた。

 深夜に意を決して脳を食べた。調味料と卵と合わせたり、パン粉をまぶして揚げたり、シチューにしたりした。

 病気になるのはごめんだが、岡本を信じることにする。そもそも、人魚の肉を食べている時点できっと何か体に問題が出るのだ。

 ええいままよ、どうにでもなれ。その勢いで、片付けもせずに就寝した。


 次の日は一日中鍋にした。鍋に骨からとった出汁を注ぎ、岡本の肉を白菜と重ねて詰めて、ぐらぐら煮た。肉と魚を一緒に食べるのは岡本を殺した日以来だと思った。

 更に次の日は角煮にした。胃のことを考えて大根など添えてみたが、気休めにしかならなかった。

 常に腹の中に何かがある。この日は幸いなことに朝から晴れていた。これでようやく加工のステップに進めると胸を躍らせながら鱗を乾燥させるべくベランダに置いた。

 それから、岡本の歯を樹脂で固めた。頭蓋骨とくっ付けたままにした方がよかったかもしれないと思ったが、これはこれでいい。

 そうしてできた鱗を使って、思いつく限りの装飾品を作った。ブレスレット、ネックレス、アンクレット、イヤリング、イヤーカフ、イヤーフック、チョーカー……使うかも分からないが、チラシの裏に何個も何個もデザインを描いて、脳から絞り出すように作り上げた。

 岡本が見たら何と言うだろうかとウキウキしながら作った。いつでも近くに岡本がいる気がする。姿が見えないから寂しいが、虚しさは感じなかった。

 もう、長いこと大学に行っていない。携帯も確認していない。それでも誰かが訪ねてくることはなかった。まだ大丈夫だろう。

 もう、岡本の加工はほとんど終わっていた。後はもう食い尽くすのみである。幸いなことに岡本の味に飽きることはなかった。みるみる内になくなっていく岡本を見ていると寂しさに胸が痛んだが、泡になってしまう方が恐い。

 朝起きて、岡本を身に付け、岡本を食べて、寝る。

 そんな日々を繰り返していると、着実に岡本は減っていき、とうとう最後となった。

 最終日、一塊の岡本を解凍してステーキにした。噛み締めるとほど良い弾力が歯を押し返して来る。じわじわと肉汁が染み出てきて、その優しい味に涙がでてきた。

 岡本を殺した時ですら泣かなかった。やることがたくさんあったから。でも、これでやっと最後なんだと気付いて気が抜けてしまったのだろう。胸の中がぽっかりと空いたような気がして、その晩は岡本の頭蓋骨を抱えて眠った。


 次の日から大学に行った。勉強の遅れは友人のおかげで何とかなりそうだ。太った? と耳に痛い言葉をぶつけてはきたが、友人たちは私のアクセサリーを見てことごとく可愛いと囃したてた。

「趣味変わった?」

「そうかも」

「彼氏?」

 ためらいなく肯定した。きゃあきゃあと黄色い声を上げて自分のことのように喜ぶ彼女たちに形見と付け加えたら、何て顔をするだろうか。恋バナと称した追及がなくなっていいかもしれない。

 きっと岡本は泡にならない。私は岡本のことを彼の望む意味で好きになったのだろう。だから、形見と言うのは正しい。それでも言わないのは、岡本を欠片も人にやりたくないからなんだと思う。

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静謐な君に 笹本 @kishikanai

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