5話目――最後の晩餐――
寝室の布団で目覚めると、枕元に岡本がいた。先の夢は本当に夢だろうか。
「……幽霊かって思った」
茶化してみたものの内心では頭を抱えたい。どうやってここまで来たんだ。まさか、本当は歩けるのか。人間と変わらず。今までずっと、私の勝手で岡本をここに留めていると思っていた。でも、岡本はどこにでも行けたんだ。そのための足を持っていた。
「もうすぐ、泡になる」
夢だけど夢じゃなかった、ってか。そう思うと笑いと虚しさが込み上げてきた。
岡本は泡になりたくないからここにいるのではない。それは分かっている。確信こそないが、そう思う。
泡になりたくなければ私を殺せばいいし、血が見たくなければ心を掴めばいいのだ。そしてそれは岡本にとってとても容易い。歌えばいいのだから。私はそれを許可している。夢だと思っていた現実の中で。
「歌いなよ。そしたら」
「そういうことじゃないんだよ、そういうことじゃ。それに」
そこで岡本は言葉を切った。そこまで言って続きを言わないのはずるい。
「それに?」
先を促すと、岡本はしばらく躊躇うように口元を動かして、搾り出すように続ける。
「……俺は所詮ニンゲン上がりだから、中途半端だった」
根本から阿佐ヶ谷を騙せないんだ。消え入りそうな声には悔しさが滲んでいた。あの夢の終わり、もしかしたら岡本は歌ったのかもしれない。
「そっか」
それでも岡本に対して嫌悪感などはなかった。恋い焦がれるようなときめきを岡本に感じることはなかったが、代わりに泡になっていいくらいには好きだった。でも岡本にとってそれは嬉しくないことらしい。最早どうしていいか分からない。
「もうさ、私のこと食べれば」
「急に何を言うかと思ったら」
「だって、私は恋するみたいに岡本を愛せないんだ。岡本のために死んだっていいのに、代わりに泡になったっていいのに、岡本が望むように転ばぬ先の杖のような愛の形を示すことはできないんだ」
岡本の柔らかな目元が責めるようにまなざす。そんな目で見ないで欲しかった。
「じゃあ、阿佐ヶ谷が俺を食べてよ」
本気の目立った。岡本の勢いは止まらない。
俺が阿佐ヶ谷を食べたって、俺は満たされない。この先ずっと君のことを思って生きていかないといけないんだ。阿佐ヶ谷にそれができる? 長生きしたくないんでしょ?
泡になって死んでやるとでも言いたげな勢いだった。散々嫌がっていたくせに。と茶化すことはできない。
「岡本がそう望むなら」
胃の中に岡本がいると思えば、正直今までのように暮らすことはできない。きっと生活のあらゆる所で岡本の顔や声がチラつくのだろう。岡本を思いながら、細く長く生きなければならない。
「歌ってあげないよ」
「いらない。こっちから願い下げ」
布団から出て、座っている岡本を立たせる。やはり重たい。それでやっと、私が運んだのではないんだなと確信した。岡本の足は相変わらず鱗に包まれていて、魚のような様相はそのままであったが、尾は二股に分かれまるで河童の足かダイバーの足ひれのようにしっかりと立っている。
歩き出すと岡本はついてきた。寝室を出て風呂場に入る。浴室は人が2人が入るにはやはり狭い。
風呂の栓を抜く。ズゴゴゴと水が渦を巻き流れていく様を岡本はじっと見ている。
「そこで待ってて」
浴槽を指差す。岡本は頷きもしなかったが、気にせず風呂場を後にした。
そのままキッチンへ向かう。包丁を取りに行くついでに冷蔵庫を開けて鰯を一尾取り出して、ガスコンロに備え付けられた魚焼きグリルの中に放り込む。
火を入れるとジリジリと魚を焼く音が聞こえてきた。
焼き始めの魚を置いて、冷蔵庫を再び開き、岡本が食べる分の鰯をもう一尾取り出す。
風呂場に戻ると岡本はすっかり空になった浴槽から窓の外に視線を向けていた。
「ただいま」
「逃げたのかと思った」
まさかと笑ったが、岡本は本当にそう思っていたようで表情にいつもの柔らかさがなかった。すぐ追いつけるくせに。
「これ」
自分のは焼く時間があるから先に食べていてと告げると今度は素直に頷く。
「最後の晩餐ってやつだね」
「そうだね。私にとっては腹ごしらえになる」
持っていた包丁を浴槽の棚に置く。ふと、岡本に痛覚はあるのだろうかと疑問を感じた。
「岡本は痛みを感じるの」
魚は痛みを感じるか。という題材の広告を新聞でチラと見たことがある。魚じゃないから分からないが、魚に近い岡本はどうであろう。それによって、殺し方を変えなくてはならない。私に課せられた使命は岡本を食べることである。無駄な痛みを与えたくはない。
「感じるよ。感じるけど、それが苦痛だとは思わないんだ」
それが死んでいるからか魚であるからかは分からないと続ける岡本に相槌を打った。そういうものらしい。
痛みが苦しみに直結しないということはどういうことだか分からないが、痛みを感じても平気だと言う主張だと判断しておく。
「ならよかった」
もっと早くにこうしていればよかった。そうしたら、岡本を殺さないようにして少しずつゆっくり確実に調理して食べられたというのに。しかし、痛みに類する感覚があるのならばなるべく早く楽にしてやりたい。そこは反応を見つつ、追々考えよう。
そろそろ魚が焼けただろうか。岡本はまだ魚を食べていない。私を待ってくれているようだった。魚を取ってくると言えば、岡本は静かに頷いた。
キッチンへ向かうと油が跳ねる音が聞こえた。火を止めてグリルから鰯を取り出すと、皮が弾けて所々から身が露になっていた。長方形の皿に乗せるとジワジワととけた脂が滲む。風呂場に戻ると岡本は手の中で鰯を持て余していた。
「食べよう」
そう告げて、共に手を合わせる。食べ方は違えど同じ物を食べている。にも関わらず、その意味合いは全く異なる。
岡本にとっては最期の晩餐で、私にとっては腹ごしらえだ。岡本はこの後、食事どころか明日の朝に目を覚ますことすらできないし、私は岡本が二度と目覚めないようにする。
具体的には岡本を殺し、解体して、食べる。
人の大きさをした生物を殺して解体するのだから、腹に何か入っていないと力が出ない。大仕事になるだろう。岡本が泡になるまで時間がない。それまでにきっちり全部腹に収める。
岡本は変わらず綺麗に鰯を食べた。それから、私が残した鰯の骨を欲しがった。骨をつまんで差し出すと、器用に口で受け取った。
腹は満たされた。休んでいる暇はない。皿を洗う時間すら惜しい。包丁を手にして岡本に近寄ると、彼は口元に緩やかな笑みを浮かべた。
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