3話目――罪悪感は人を愚かにする――
逃げるように浴室を去った。食事も終え、今日はもう家から出る予定はない。眠るのはまだ早いが、岡本の元に戻る気はなかった。昼寝というには遅いが、何も考えずに寝転がりたい。寝床に向かう。
岡本が人魚になって色々と戸惑うことが多いが、彼が浴室から出られないことには感謝している。彼は地に足を付けて歩くことができない。あの尾っぽで歩くのは物理的に無理だろう。あの滝からここまで運べたのだから、暑さや乾燥には強いのだろうけど。
いつもの場所に布団を敷くことすら面倒で、床に寝転んだ。汗で体がベタ付く。フローリングはひんやりと冷たい。じわじわと、体と接している部分が湿っている。
不衛生だ。しかし、風呂に入るのは面倒だ。そもそも、浴槽は岡本が使用している。近所に銭湯などもない。どうしたものか。ええい、面倒だ。
寝転がっている内に意識がぼんやりと遠退いてきた。遅い昼寝だ。何時に目が覚めるだろうか。ああ、夕飯……。岡本は食べるのだろうか。冷蔵庫に入ったイワシのことを思い出す。持って行ってやらなくては。勝手にこんな所まで連れてきてしまったんだ。ちゃんと面倒を見ないと。岡本には足がないから、ずっと浴槽に居続けるしかないから、私が放ってしまったら死んでしまう。一眠り。一眠りしたら、鰯だけ投げ入れて……。ああ、遠くから歌が聞こえる。岡本だ。綺麗な声だ。
目が覚めるとすっかり日が落ちていて、部屋は真っ暗になっていた。電気を点ける。
「岡本、晩飯、鰯……」
冷蔵庫から鰯を取り出して、浴室へ向かう。
「阿佐ヶ谷、来てくれたんだ」
「だって、そりゃあ、私が岡本をここに連れて来たんだから、無責任なことはしないよ」
「優しいなあ」
鰯を放り投げると岡本はにやにやしながらキャッチした。パリパリと、やはり綺麗に食べる。
「岡本は暑さや乾燥には強いの?」
「さあ」
さあって、何だよ。さあって。
「だって、あの滝からここまで電車とバスに乗って結構掛かるよ。ケーキだったら保冷剤足りずに傷んじゃう」
冷静に考えたら、これを岡本の友人になる川魚たちでやったら、皆腐臭を放って死ぬだろう。でも岡本は無事だった。
「そうかもね。そうじゃなかったら、俺は阿佐ヶ腕の中で死んでいたのかな」
「嫌なこと言わないで」
そんな、何ともないような顔で。
「……そういえば、阿佐ヶ谷、俺がいたら風呂入れないよな」
話を切り替えるように岡本が言う。さっき仮眠を取る前に同じようなことを考えていた。
「いいよ、シャワ―浴びるから」
「ごめんね。バスタブ占領しちゃって」
「謝らないでよ。私が連れて来たんだから」
風呂のために洗面場やシンクなんかに住まわせる気もないし、本当はもっと広い所で自由に泳いで欲しい。
「見ないから安心して」
岡本は下を向いた。ずっとこのままでいたら首が痛くなるだろうに。
「いいよ、減るもんじゃないし」
そう言っても岡本は俯いてこちらを見ない。岡本は私のことが好きなのに、私はなぜこんな無神経なことをしているのだろうか。これなら誰か1人暮らしの奴に風呂を借りた方がいいかもしれない。
「やっぱ、誰かの家……」
ここで岡本が素早く顔を上げた。悲壮な表情だった。自分の顔が引き攣るのが分かる。それを見た岡本は眉を下げてごめんと呟いた。
「どこかへ行かないで」
心細そうな表情だった。初めてのおつかいに放り出された幼児のような。
「俺には、阿佐ヶ谷を追ってここから出ることすらできないんだ」
私がそうしてしまったんだ。人魚を陸に連れ込んで、僅かな水しかない浴槽に閉じ込めて。残酷なことをしてしまった。胃がぐうと痛む。じわじわと苛むように、ぐうぐうと痛んでいる。
「……なら、どこか行くことがあったら連れていくよ。岡本がここに来たみたいに」
そう言って、岡本の腋に手を差し込む。そういえば、魚にとって人の体温は火傷するような熱さだと聞いたことがある。少し不安になったが、岡本は人魚だし、あの時運べたのだから平気なのだろうと判断した。
「あれ」
持ち上げようとするが、かなり重い。抱えて100メートルも運べない重さだ。
「岡本、私は本当に岡本をここまで運んでこられたのかな」
「でないと、俺はここにいないと思うけど」
あれは火事場の馬鹿力だったのか。だとしても体のどこも痛くない。普通ならすでに筋肉痛にでもなっているだろうに。明日になったらくるのだろうか。
「……」
「不思議だね」
腑に落ちなかったが、岡本が緊張感のない顔をしているから、細かいことはどうでもよくなった。
「阿佐ヶ谷、シャワー浴びてさっぱりしなよ。これが日常になるんだから」
「そうだね」
誰かの家の風呂を借り続ける生活なんて相手の迷惑でしかない。さっさと服を脱いで脱衣所に放り込み、シャワーを浴びる。さすがにお湯を出すのは憚られたので水を浴びている。岡本はにこにこしながらこちらを見ている。
「お湯でも平気だよ」
岡本が温度調節のハンドルに手を掛けた。じわじわと水が温かくなっていく。ここは岡本の優しさに甘えて頭だけ洗わせてもらおう。充分に髪が濡れた所でお湯を止め、泡立てたシャンプーを髪に馴染ませる。指を立てて、こめかみから頭頂部、生え際から後頭部と掻いていく。髪がたっぷりの泡を含み、もこもこと膨らんでいく。もう充分だ。
「泡流す?」
「うん」
答えた途端にお湯が降ってきた。咄嗟に目をつむる。水は頭頂部に掛かり、重力に従って落ちていった。流れに逆らって髪を掻き混ぜ、シャンプーをきちんと洗い流す。これでいいかと思ったタイミングでお湯が止まった。岡本、何て絶妙なタイミングなんだ。思わず岡本を見てしまう。
「人魚になると、人の心まで分かるんだ」
「そうなの」
有り得そうだと思いながら、ぼんやりと岡本を眺めながら体を洗う。
「嘘。ちょっと信じたでしょ」
岡本は至極楽しそうに笑った。
「嘘吐き」
「そう。俺は嘘吐きなんだよ」
なぜが笑いが漏れた。それからは何も言う気にならなくて、黙って浴槽を後にした。服を着る気も食欲もわかず、布団だけ敷いて寝た。
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