2話目――プライドを捨てるな――

 魚の尾っぽをひらめかせる岡本の姿を最後に気を失ったが、帰巣本能のおかげか、自宅の風呂場で意識を取り戻した。

「あ、気付いた?」

 浴槽の中には岡本がいる。体を真っ直ぐに伸ばせるわけがなく、尾が窮屈そうに折り返している。こんな狭い所に押し込んでしまって、悪いことをしてしまったなと反省した。

「どうやってここまで?」

「歩いて運んで」

 どうやってここまで連れて来られたのかは自分でも分からないが、目の前に岡本がいるのだ。私は上手くやったのだろう。

「阿佐ヶ谷、俺ね」

「……お腹空いたの?」

 そこで、食べそびれた朝食のことを思い出した。冷めて固くなっているだろう朝食のことを。岡本にも食べさせようと思ったが、今の岡本が私と同じ食生活なのかは分からない。

「違うよ、そういうんじゃない」

 岡本は眉を下げて抗議した後、唇をキュッと一回結んでから口を開く。

「俺ね、死ぬ時に阿佐ヶ谷の顔が見たいって考えちゃったんだ。魚かなんかになって、阿佐ヶ谷に飼われたいとも思った」

猫になってお金持ちに飼われたいみたいなことを言う岡本につい笑いを溢す。

「……だから人魚になったって? それはさすがに面白過ぎるでしょ」

 岡本に恨めしそうな目付きで睨まれ、笑いを堪えようとするが、堪え切れずに肩が震える。しばらくそうしていたら、水をかけられた。

しばらくきゃあきゃあはしゃいでいたが、服が重たくなっていくにつれて鬱陶しくなってくる。笑うのを止めても止まぬ水鉄砲に、私の家の風呂の水だぞと抗議すると、猛攻が止んだ。

もう岡本は怒っていなかった。

「ね、歌ってよ。人魚でしょ」

 人魚は歌がうまいと聞く。ちょうど人魚になってしまった岡本がいるのだから、彼さえよければその歌声を聴けるのではなかろうか。期待を込めて視線を送ると、岡本は眉を下げて笑っていた。

「駄目だよ阿佐ヶ谷。俺のこと好きになっちゃうよ」

「は」

 何を言っているんだろうか。自信に満ちた物言いは、生前のものではない。他の人にはこのノリだったのだろうか。ふざけているのかと思ったが、その表情は真剣だった。

「俺、人魚だから」

 人魚の歌は人を虜にすると聞いたことがある。それを気にしているのだろう。眉を下げた笑みは困ったときにする仕草だった。

「でも岡本、私のこと好きなんでしょ」

何の問題があるのだろうか。歌ってしまえばいいのに。

「そういうのは嫌なんだよ。分かってよ」

「構わないのに」

「え」

 岡本がポカンと口を開けて間抜けな表情をしている。

「岡本のそういうとこ、好きだよ」

 しばらくして、岡本が破顔する。こちらもつられてにやけてしまう。私はその顔が見たかったんだ。

「岡本のこと見付けられてよかった」

 そう言うと、岡本はおかしいと言いたげに眉と口角をひょいと上げた。目が三日月のように細くなる。

「でも、俺が手紙を書かなかったら、ずっと気が付かなかったでしょ」

 自嘲する表情は、至極歪な笑みであった。少し居心地が悪い。しばらく見つめ合っていたが、ふいに岡本が視線を逸らした。

「なんか、お腹空いたね」

「何食べたい?」

「魚」

「スーパーのでいい?」

「うん。海のならなんでも」

「川魚は駄目なんだ?」

「川生まれだからね」

「へぇ」

 その感性は私には理解しかねた。白人は食えても黄色人種に近い人間は食えないという話に聞こえてしまって。

 早速、スーパーに出かけてイワシを買う。いくつ食べるか分からなかったので、とりあえず3本買った。食べ損ねた朝食と魚を持って浴槽へ向かう。微かに歌声が聞こえた。ほんの数週間前に行ったカラオケで聴いた声とは雰囲気が違う。扉に手を掛けると歌声が止まった。

「歌ってていいのに」

「嫌だ」

 岡本の目の前にイワシをぶら下げ、いくつ食べるか聞くと1本でいいと言われた。水族館でアラザシに餌をやる様子を想像していた身としては少し拍子抜けした。しかし、あまりたくさん食べられても食費がかさむだけなので、正直な話、助かる。

岡本はパリパリと音を立ててイワシをかじる。皮が、身が、みるみるうちに削げていって、暫くすると彼の手の中には骨しか残らなかった。

「骨は食べないの」

 岡本をずっと見ていて、自分の食事を忘れていた。慌ててトーストに噛り付く。

「人魚だからね」

 人魚は他の魚のように丸のみなぞしない。だから骨を食べない。岡本はそう主張して、骨をこちらに差し出した。受け取った骨は水酸化ナトリウムに沈めた標本みたいに綺麗な状態だ。さっきまで身が付いていたとは思えない。

 食事を終えた岡本は遅れて食べ始めた私を見ている。落ち着かない。さっきはジロジロと見て悪かった。悪かったから見るな。私を見るな。そんな、湖のような静謐さを湛えた目で私を見るじゃない。そう言いたくなったが、詰め込んだトーストが邪魔をしている。半ば祈るように、口の中のトーストを噛み締めた。

「阿佐ヶ谷は大口を開けて食べるんだね。よく噛みなよ。慌てて食べると胃に悪いから」

 そうさせるのは誰か。恨めしく思いながら、冷え切って硬くなったトーストを念入りに噛み砕く。

「俺はもう、魚しか食べられないからなあ。阿佐ヶ谷はパンが好きなの」

首を振る。私は米の方が好きだ。口の中のトーストを飲み込む。1つの物しか食べられないのは悲しいことなのだろうか。

「米。岡本は」

少なくとも、この先何かを食べたとして、それが美味かった時、岡本と共有できないことは寂しい。

「俺はパンが多かったからパンかなあ」

「変な物言い」

岡本は首を傾げる。

「好きってそういうことじゃないの? 好きだから食べるってのもあると思うけど、俺はたくさん食べてるから好きなんじゃないかと気付いて好きになるんだ」

何かを説明する岡本は済んだ水のように透き通った真顔になる。今気付いた。

「じゃあ、私のこともそういうことなんだね」

岡本の好きが相対的な物なのであれば、彼に好かれた要因は接触回数であろう。たくさんの人と関わっていた岡本だ。私にとっては濃密な時間でなくても、彼にとっては相対的にそうであったのだ。恐らく。

「かもね。でももう心変わりはないよ」

澄んだ湖畔に指を差し込むがごとく、岡本は表情を緩めた。安寧の地を見付けたかのような顔だ。

「いいや、言い切れない。その話を聞いたら、歌を聴きたくなくなった」

「俺のこと嫌いになったの。悲しいなあ」

悲しいと言う割に、そう見えない表情だ。死んで人魚になれば多少の悲しみやら戸惑いに強くなるのだろうか。生前の岡本はもう少し頼りない表情をする奴だった。それが結構嫌いじゃなかった。

「違うよ。私は岡本をいつかあの滝に返そうと思っているんだ。そうしたら、岡本はきっと、関わりが増えた誰かのことをパンのように好きになるでしょ。でも、歌で岡本を好きになった私は、きっとずっと岡本のことが盲目的に好きなんだ。だから、歌は聴きたくない」

「嫉妬」

ぽつりと、岡本は言う。眼球に湛えた湖畔はキラキラときらめいている。

「そうかもしれない」

何て不条理なことなんだと思った。

「俺ばっかりが阿佐ヶ谷のことを好きなんじゃないってこと? それとも阿佐ヶ谷のわがままなの」

岡本はどことなく嬉しそうだ。何て奴。

「分からない。でも、わがままなことを言っている気はした」

言わなくていいことを壊れた蛇口みたいに漏らしている。ボロボロと零れていく。この後、1人になったら恥ずかしい思いをするのだろう。

「そっか」

岡本は死んで、人魚になって、私に会いたいと遺書まで遺した。私はよく分からないままに岡本に会いに行って、彼をこんな狭い浴槽に押し込んでいる。

馬鹿みたいだ。死者に、人でないものに振り回されて。

「そういう風に考えてくれることは、俺にとっては嬉しいよ」

浴槽から手が伸びる。招くように揺らめいている。手を取ると死人のように冷たかった。水と同じ温度。

「そうだ。自由になった岡本はいつか誰かを好きになるんだ。そして、岡本の歌を聴かなかった私もいつか誰かを好きになる。それがいい」

岡本は柔らかな表情のまま、私の手を取り指を絡める。思いのほかに強い力を込められて動揺した。

「阿佐ヶ谷、今俺が歌ったら阿佐ヶ谷は俺をここから出したくなくなるし、俺以外の誰かを好きになることもなくなるよ。それもいいんじゃない」

何だよ。岡本、そういうの嫌なんじゃないの。

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