静謐な君に

笹本

1話目――変わり果てた姿になって――

 春休みの終わり頃だった。スノボーなんかに行き飽きて、部屋で腐っていた時期だ。起き抜けに郵便受けを覗いたら、友人である岡本から手紙が届いていた。

 岡本は学科のお調子者である。ピアスはおろか、染髪もしないような真面目ななりをしているくせに、遊んでいる集団に属している。爽やかな短髪とくしゃっとした正しく破顔と言える笑顔が魅力的な奴で、この笑顔を見れば大概のことは許せるくらいいい顔だ。その顔に相応しく、挙動も爽やかで気がいい。友達が多いようで、色んな奴と挨拶を交わし、軽やかなフットワークで遊びに行っている。

 そんな岡本から届いた手紙は真っ白な封筒に、黒で宛名が書かれている。岡本が手紙と言う時点で不思議なのに、この神経質そうな手紙のレイアウトである。何事かと思い、ラインを飛ばす。いつもなら引くほど早くに付く既読が付かない。マメな岡本が珍しい。まだ寝ているのか。

 そんなことより朝食だ。6枚切りのパンにベーコンとチーズを乗せてトースターで焼く。焼き上がるまでの時間で巣籠もり卵を作った。ついでに、コップに牛乳を1杯注いでテーブルに置いた。焼き上がりの合図を聞いて、トースターからトーストを取り出す。巣籠もり卵に使ったホウレン草の他にも青物が欲しくてレタスを挟む。出来上がった皿をテーブルに並べた。

 一息ついた所で岡本から届いた手紙の封を切った。元来、私にはペーパーナイフを使う習慣がなかった。封筒をビリビリにして中身を取り出していた私にペーパーナイフの存在を教えてくれたのは岡本である。さては岡本、ペーパーナイフを使う機会をくれたのだろうか。何て粋な奴だ。 封筒から取り出した便箋はやはり白かった。


  阿佐ヶ谷へ

  俺は、これが届く前の晩には死んでいる。

  理由ばっかりは言うのが恥ずかしいから、阿佐ヶ谷には教えてあげない。

  俺はずっと阿佐ヶ谷のことが好きだった。

  だから、俺の死を一番に知って欲しくて、この手紙を書いている。


 遺書だ。これは岡本からの遺書だ。なぜだ。つい昨日まで電話をしていたが、そんな素振りは全くなかった。私のことが好きだって、それは今になって言うことなのだろうか。続きを読む。


  もう死ぬから言うけどね、死体を阿佐ヶ谷に見てもらいたいんだ。

  俺は簡単には見付からない所で死ぬ。死に場所は手紙に書いて、明日家に届くようにした。

  もし、阿佐ヶ谷さえよければ、俺を見てくれないか。通報とかはしなくていいから。ただ見るだけでいいから。

  俺の一生のお願い。

  死に場所の見当は付く?

  滝の綺麗なあの山だよ。

  1日だけ、成仏しないで待ってるから。


 手紙はそれで終わっていた。何てわがままなやつなんだ。おかげで食欲が失せた。大学へ行く気も失せた。しかし、私は外出の準備をしている。定期と財布と携帯を持って、閑散とした電車に揺られている。何となくラインを開くが、相変わらず既読は付かない。電話をかけても出なかった。

 嘘か本当かは分からない。もしかしたら岡本は生きていて、着いた先には大学の連中もいて、信じた私を笑うかもしれない。それでも無視することはできなかった。遺書で一生のお願いなんてされたら、行くしかないじゃないか。

 車窓からカンカンと照る日がこの身に刺さる。春先とはいえ油断ならぬと着込んだジャケットにジワジワと熱がこもる 寂れた列車はガタンガタンと揺れが激しい。その内に脱線して死ぬんじゃないかというほど荒く感じる運転だ。普段使っている電車とは大違いだ。岡本もこれに乗ったのだろうか。尻を緩やかに痛めながら、死へと近付いたのか。ジャケットの中でこもった熱がぽっぽと顔まで到達する。体が汗ばんできた。

 ×××駅に辿り着いたのは昼前だった。とは言え、早く見付けられるにこしたことはない。きっと、××の滝だ。そこに岡本がいるのだろう。


 山に入ると心なしか気温が下がったように感じた。木のお陰だろうか。うっすらと浮かんでいた汗もすっと引く。

 こんな日でも岡本の死体は冷たいのだろうか。人が立ち入る山だ。私が見つけてやらなくても岡村は見付かるだろう。しかし、岡村はおそらく今も順調に腐っている。面の皮一枚剥いだらどうなっているのかは保証できない。この気温であればすぐにとは言わずとも腐る。まして水辺だ。グズグズの土左衛門になってはいないだろうか。あの綺麗な笑みが二度と見られないのは悲しい。パンパンに膨れた顔じゃあ、あのくしゃっとした笑顔にはならない。

 滝まではそう遠くなかったはずだ。一緒にここに来た時、岡本は軽やかな足取りで滝へと向かっていた。本当はこういう所の方が好きなんだと呟いたときの表情はあまり見たことのない穏やかな笑みだった。

 岡本はなぜ死を選んだのか。その理由が気になっている。見付けたら分かるんじゃないか。そんな根拠のない確信のためだけに、単位と交通費とおろしたてのスニーカーをドブに捨てた。

 気温が一段と下がる。水の音が聞こえる。もうじき滝に着く。岡本はどうやって死んでいるのか。どの辺りにいるのか。頭の中は岡本が占めていた。

 滝は轟々と音を立てて水を落としている。30メートルほどと言えど間近で見れば随分と高く感じた。

 その滝の近くの岩に頭のない死体が引っかかっていた。滝から身を投げたのだろう。体はぐにゃりと柔らかくなってしまって、血が染みて黒くなった岩にガムみたく貼り付いている。破裂したであろう頭部は見当たらない。

 死体は岡本が気に入って着ていた服を着ている。あれが岡本だろうか。いや、まだそうと決まったわけではない。持ち物があればより確実に岡本だと特定できるだろうと思い立ち、水の中に足を踏み入れようとしたその時。

「駄目だよ。阿佐ヶ谷が濡れちゃう」

 聞き馴染みのある声がした。思わず顔を向ける。水の中に黒い塊があった。

「岡本……」

 それは岡本の頭だった。滝から落ちてこうも綺麗に首と胴体が分断されるとは何て器用な死に方なんだ。水面に浮く岡本の頭を眺めながらそう思った。

 岡本はすすっとすべらかにこちらに近寄って来た。さっきの声は幻聴かと思っていたが、そうではないようだ。注意深く見ていると、てっきり生首だけだと思っていた岡本に体があることに気付いた。

 岡本は生きていたのか。ならあの死体は一体誰だ。岡本は自殺した自分を見て欲しかったのではなく、殺した誰かを私に処理して欲しかったのだろうか。私の力ではこの死体を処理することはできないのに。

 それにしても、どうして死体のある滝で泳げるのか。そもそも暖かくなってきたとはいえ、まだまだ水に入れる気温ではない。

「阿佐ヶ谷、どうしよう、俺」

 こんなんなっちゃった。

 答え合わせをするように岡本は器用に水面から足を出す。目の前に出されたそれを足と言っていいのか分からない。それは魚の尾っぽだった。岡本の下半身は丸ごと魚になっていた。

「岡本……人魚になったの」

 私は考えることをやめた。

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