第二話 道中は緑の色
人質の見張りには、天幕の中で待機する俺とは別に、出入り口にも一人いる。
一見、非常に頼りなさそうなくらいに痩せ細ったその男に、俺は天幕の出入り口の布から顔を出して、声を掛けた。
「おい、ランスェ」
「どうした、ジュアン。何か問題でも起きたのか?」
こちらに人の良い笑顔を向けるランスェは、昼間に護衛のこめかみを射抜いた奴と同一人物とは思えない。
俺は、親身になってくれるこいつに、やれやれ困ったという表情で首を振る。
「ああ。『お姫様』が、外で用を足したいと言い出したんだよ」
「何でだよ。中に便所があるだろ」
ランスェの言う通り、広い天幕の一角には、便所用の小部屋が仕切られている。だが、言い訳はちゃんと考えていた。
「そこだと、漏れる匂いが気になるんだとさ。俺がちゃんと見張るから、一瞬だけ、頼むよ」
「とは言ってもな……」
俺が平伏する勢いで頭を下げてみても、ランスェは渋い顔を崩さない。ここで、とっておき賄賂を、こいつの目の前に差し出す。
「それは?」
「『お姫さま』が持っていた、ハンカチだ。嫁さんに送ってやれ」
染み一つない、真っ白なレースのハンカチに、ランスェはあっさり靡いた。仕方ないなぁと言いたげに苦笑して、俺の手からハンカチをぱっと奪うと、ポケットにねじ込んだ。
言葉は交わさずとも、今ので十分だった。天幕の内側に顔を戻すと、アマランサスに「出ろ」と顎でしゃくる。こいつは顔を伏せて、しずしずと、外へ出てきた。
その立ち振る舞いや表情は、どう見ても『囚われのお姫様』だ。正体を知っている俺でも、また錯覚を起こしてしまいそうなほど。
もちろん、俺もただ黙って見ているだけにはいかないので、曲刀を抜いて、アマランサスの背中に向けながら、「さっさと歩け」と脅すふりをする。アマランサスは殊勝にも、ぴくりと反応させて、怯えているという雰囲気を醸し出すので、俺は密かに感心する。
……ランシェの視界から外れ、宴会の騒ぎも遠い波音のように聞こえるほど離れた頃に、アマランサスがぱっとこちらを振り返った。
「これからどこへ行くのですか?」
「あっちに、駱駝小屋がある。そこから、俺の相棒を連れていく」
「駱駝に乗って、移動するのですね」
「駱駝の足だったら、ミンセンウまで一晩でたどり着けるからな」
アマランスが降り立った港町の名前を出すと、彼は納得した様子で頷いた。交易の要であるそこに辿り着ければ、海路でも陸路でも、好きな方へ行けるからだ。
少しして、駱駝小屋に辿り着いた。全ての駱駝が眠っているが、俺の足音を聞き分けて、ディコだけが目を開けた。
「ディコ。こんな夜中だが、出発するぞ」
首を挙げたディコは、俺が目の前に来るとすぐに立ち上がった。嬉しそうに、頭をこちらに寄せてくるので、俺はまず頬を撫でてあげる。
その様子を後ろで見ていたアマランスは、素直に驚いているようだった。
「すごく懐いていらっしゃるのですね」
「俺が鼻垂れ小僧の時から、ずっと育ててきたからな。あの盗賊の中で、俺を裏切らないのはこいつくらいだ」
他の盗賊団には、駱駝を道具のように乱暴に扱う奴らもいるが、そんなのは三流のすることだ。俺たちくらいの腕があると、駱駝に深い愛情をもって接するので、扱いも熟知し、自分の手足のように動かせる。
手綱を引っ張って、ディコを小屋から出す。鞍も付けた状態でしゃがんでもらい、瘤を挟んだ首側にはアマランサスを、尻尾側には俺が座った。
「これから一晩、このまんまだが、我慢してくれよ」
「平気ですよ。過酷な状況には慣れています」
本当か冗談か分からないことを言って、笑っているアマランサスに対して、俺は何と返答すればいいのか分からずに苦い顔をしながら、野営地を抜け出した。
⦿
ディコがほとんど休まずに一生懸命歩き続けたおかげで、俺たちは予想よりも早くミンセンウに辿り着いた。夜明け前の、うっすらと青い闇と澄んだ空気が周囲を包んでいる。
まず立ち寄ったのは、町はずれの共有井戸だ。幸い、誰もいないので、ディコにそこの水を飲ませる。
「お疲れ様です。ゆっくり休んでくださいね」
ディコの背中を撫でながら、そう労いの言葉を掛けるアマランサス。この瞬間だけを見ると、心優しい令嬢にしか見えないのが、非常に気持ち悪い。
「なあ、その話し方と立ち振る舞い、辞めてくれないか? 男なのにって、毎回思っちまう」
「お生憎様。私は、物心ついた時から、影武者として完璧な立ち振る舞いを練習させられたので、これ以外は出来ないのですよ」
目を細めたアマランサスは、何故だか楽しそうに言ってくる。自分の生き方を、誇らしく思っているかのように。
そう断言されると、俺も無理強い出来ない。まあ、どうせ、アマランサスの言葉は俺にしか分からないのだし。ただ、所作も女のままだとしたら、作戦を考え直さないといけない。
「ちょっとここで待っててくれないか」
「どこへ行くのですか?」
「あんたの服を見繕ってくる」
アマランサスにディコの手綱を預けて、俺は早足でそこを離れた。
しばらく進むと、荷造りをしている服屋を見つけた。人力車に商品を乗せているのを見ると、朝市に行く準備中らしい。
俺は灰色のターバンを巻き直し、自分の目元以外を隠すようにする。そして、足音を盗んで、店の主人の背後に迫り、その首元に抜いた曲刀を回した。
「動くな」
「ひえっ」
「女物の服が数着欲しい。適当に見繕ってくれ」
「わ、分かりました」
髭の立派な中年男だが、自分よりもずっと年下のガキに可哀そうなほど震えている。俺から言われた通りに、さっき乗せた荷物の中から、二三着の服を取り出して渡してきた。
途中、店の中から奉公人の少年が二人出てきたが、脅されている店長を見ると、硬直してしまった。そんな中、服を奪えた俺は、店長から少しずつ離れながら、捨て台詞を吐く。
「いいか。警備隊には絶対に言うなよ」
そして、すぐに走って逃げた。追いかけられたら、路地に入って巻いてやろうと思ったが、あいつらにはそんな勇気もないらしい。
アマランサスとディコの元に戻ってくる。座って休んでいるディコと、その手綱を握って不安そうな顔をしていたアマランサスは、俺を見つけるとほっとした顔に変わった。
「戻ってきてくれて、安堵しました」
「俺がディコを残して消えるかよ」
合流するとすぐにこちらへ顔を寄せてくるディコの頭を撫でながら、俺は答える。当然、アマランサスの頼みを叶えるという一番の目的があるのだが、それを口にしなかったのは照れ隠しだ。
アマランサスに服を渡し、近くの家と家の間の隙間で、着替えさせる。彼女を隠すように、俺とディコとで衝立代わりに塞いだ。
「男物の方が良かったのでは?」
「あんたが男らしく振る舞えないのなら、余計に目立つだろ。それに、そっちの方がスカーフで、自然に顔の殆どを隠せる」
そうですねと頷くアマランサスは、急に声を低くして、尋ねてきた。
「……この服は、購入したのですか?」
「まさか。俺は無一文だぜ。それは、脅し取ってきたものだ」
「相手は、殺害したのですか?」
「そこまでしてない」
きっぱり言い切ると再びアマランサスはほっと息を吐いた。
「安心しました。私のために、血が流れるのは嫌ですから」
「随分優しいんだな」
「いえ。自分の命の価値は、他の誰よりも劣っていると知っているからです」
「……それなのに、逃げようとしているのか」
「そうなんですよ」
問答の最後の一言は、自分の真後ろから聞こえたので、驚いた。振り返ると、彼が腕を後ろに組んで、立っていた。
若葉色のガラベーヤを着て、頭と顎までを濃い緑のスカーフで緩く覆ったアマランサスは、服の中心を柱のように彩る金の刺繍をきらめかせながら、全てを見透かす瞳で、俺に微笑みかけていた。
「貴方を見ていたら、自分の命が初めて惜しく感じました。何故でしょうかね?」
その可憐さに見惚れていたなんて知られたくないので、殊更乱暴に「知らねぇよ」と突っぱねるしかなかった。
⦿
アマランサスが元々着ていたドレスは、そこら辺の布屋で高く売れた。袋の中にたっぷり詰まった金貨の重みに、俺はほくほくの気持ちになれる。
なので、食事は豪勢に、屋台の牛串にした。アマランサスにとっては庶民臭いと思われるかという懸念はあったが、彼は普通に旨そうに食べていた。
路銀も手にして、腹も満たしたが、まだこの町から出発できない。安全な道程を確保するための前準備が必要なのだが、その前にも一つ、大仕事が残っている。
人通りが増え始めて、狭くなってきた道を悠々と歩くディコを見上げる。その背中には、アマランサスがちょこんと乗っている。周囲よりも目立つのではと彼は心配していたが、空の駱駝を二人で歩かせている方が目を引くので、こうするのが最善だった。
「アマランサス。ちょっと立ち寄るところがある」
「構いませんよ。お付き合い致します」
俺の言葉にも、アマランサスは何も疑っていないような笑顔で頷く。何もかも任せ過ぎじゃないかと、ちょっと心配になるくらいだ。
立ち寄ったのは、駱駝の売り買いをする商家だった。アマランサスにディコから降りてもらい、手綱を引いて店員の前に持っていく。
「らっしゃい。何か御用で?」
「こいつを売りたいんだ」
店員は頷き、ディコのことを舐め回すように見つめながら、年齢や特技などを質問してくる。俺は全て正直に答えた。店員は、それを加味して、ディコの値段を定めて、俺がそれを承諾したことで取引は成り立った。
最初、この国の言葉を知らないアマランサスは、俺たちが何をしているのか分からずに、視界の隅できょとんとしていたが、ディコを売ろうとしていることを察したようだ。商談をまとめた俺に、慌てて駆け寄ってくる。
「この子を売るのですか?」
「ああ。これ以上連れ回すのは目立つからな」
「でも……」
「むしろいい機会なんだよ。俺みたいな盗賊に使われるよりも、ずっと、こっちの方がディコにとって幸せだ」
俺は笑って言い返してみせたが、アマランサスはまだ泣きそうな顔をしている。それでも、俺の決意を汲み取ってくれたのか、無言で頷いた。
一度店内に引っ込んで、お偉いさんとの話もまとめてきた店員が戻って来た。店の裏にある駱駝小屋にディコを連れて行くという。……まだ惜しい気持ちがあって、俺はディコの手綱を掴んだまま、彼の後を歩いた。
駱駝小屋に収まった駱駝たちは、皆毛艶がよく、普段からしっかり手入れされていることが一目で分かった。突然現れた見知らぬ客に対しても怯えたり、興奮したりもせず、人間を深く信頼しているようだ。
俺が以前、ここを通りかかった時に抱いた、駱駝のことを丁重に扱っているという印象は変わらなかったので、ほっとした。この店なら、ディコのことを安心して任せられる。
ディコを、一番端の空き部屋に収めても、こいつは優しい瞳でこちらを見詰めているので、俺の欲目が出てしまった。常に持ち運んでいるブラシを懐から取り出して、店員に頼み込む。
「最後の挨拶の代わりに、こいつを手入れしてもいいか?」
「ええ。どうぞ」
店員が微笑しながら承諾してくれたので、俺はディコの隣に回り込み、その大きな体とごわついた毛にブラシを入れていく。胴体、全ての足、尻尾、そして、ディコが一番撫でられると喜ぶ首筋も、ゆっくり丁寧に、ブラシで撫でつけていった。
俺は、人を平気で殺められるような非道な人間だが、お前への愛情は、本物だったよ。そんな気持ちを込めて、ブラシを動かし続けた。
「じゃあな、ディコ。俺よりもいい奴に可愛がってもらえよ」
顔の手入れまで終わった。俺に自分の顔を寄せてくるディコを、両手で包んで、その鼻筋に額を当てる。子供の頃から変わらないこいつの甘え癖に、込み上げてくるものがあったが、必死に我慢した。
「ディコを頼む」と、店員に託して、俺とアマランサスは駱駝小屋を後にした。あいつは賢く、これが別れだと気付いているため、こちらに駆け寄ろうとはしない。ただ、小さな声で一度だけ嘶いたのが聞こえたのには、非常に堪えた。
振り返らないと決めた俺に反して、アマランサスは何度もディコの方を見返していた。なんで、お前の方が別れを惜しんでいるんだと、笑ってしまいそうになるほど。
ちらりと、そいつの横顔に、「自分のせいでジュアンとディコが離れ離れになってしまった」と自責する色が見えた。だから俺は、敢えてアマランサスの顔を見ないようにしながら、断言する。
「……ディコのことまで手放したんだ。俺は、絶対にあんたを逃がすぞ」
「……はい。宜しくお願いします」
いつの間にか、太陽は天高く登っている。砂漠の町の、長く暑い昼が始まろうとしていた。
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