第2話 甘い香りと苦い味

 店から出て来た女性が僕の前で足を止める。

 窓の前に立つ僕を彼女がジッと見つめてくる。

 「あの、すいません」

 数秒ほどその女性のことを見つめ返していた僕は、勇気を出して彼女に声をかけた。

 「この棚に置いてあった白い花って、今どこにありますか?」

 女性に質問しつつ僕は、店の窓硝子越しに棚の空いたところを指差す。

 あの白い花はもう誰かに買われてしまったのでは、と僕は自分の中で確信に近い気持ちを持っていた。けどその一方で、あの白い花がまだこの店にあるのでは、と僕は自分勝手な僅かばかりの気持ちに懸けている。

 ただ…売れてしまったという現実から目を背けたかった。

 きっと店側の事情で白い花をメンテナンスか。何かで、一時的に店の奥で閉まっている。とか僕はそんな答えを目の前に立つ彼女から欲しかった。けれど現実は思った通りに残酷で次に耳に入ってきたその言葉に、僕はいつの間にか考えることを放棄するのだった。

 「…売れましたよ、あの白い花は」

 思った通り、女性の口から発せられた言葉が僕に残酷な現実を突きつける。


 *

 私を映すその瞳に大粒の涙を抱える子が、私の目の前に立っている。

 私は彼のことを知っている。

 一年ほど前からだろうか。店内の窓際に設置されている棚、その棚に置いてあった白い花を毎日のように見に来ていた子だ。

 棚と鉢の隙間から見える彼のキラキラした瞳を覚えている。

 私に迫って来た彼が店の窓を指差し聞いてくる。その先を示していたのは、鉢が一つ分空ている花の並んでいる棚だ。

 「この棚に置いてあった白い花って、今どこにありますか?」

 目を合わせる前から聞かれるであろう頭の中で予想していた質問が、彼の口から私に飛び込んでくる。

 彼が窓際の棚にあったあの白い花が好きだということは、ここ一年ほど見てきた私はある程度理解していた。そして今日、彼が私に質問してきたことでその理解は確信へと変わった。

 私は今から口にする質問の回答を彼に伝えたくない。けど聞かれた以上、どんなに答えたくないことでも私はその質問に答える義務がある。

 ぱっと見、少なくとも私は彼よりも上の階級の存在だ。

 ここ天界では、階級が上の者は下者からの要望や質問に可能な限り答えなければならない。という約束が存在する。

 彼から教えて欲しいと頼まれた以上、どの道答えなければならない。嫌な約束だ。

 私はいつもの仕事中の口調で、彼に白い花の現在を伝えた。

 「…売れましたよ、あの白い花は」

 その時の光景を私は忘れることは無いだろう。私の回答を耳にし、徐々に崩れ落ちていく彼の姿を。

 *

 

 どれくらい時間が経っただろうか?彼女の言葉を耳にしてからの今時までの記憶がない。まるで本のページを破り捨てたようだ。

 気がつけば、僕は見知らぬソファの上に腰を下ろしていた。周りには数種類もの花が、あちらこちらに置かれている。

 数秒ほど考えて僕は理解した。ここは花屋『一本道』の店内だ。

 店内の辺りを見渡していると奥の部屋からさっきの女性が現れた。彼女は両手に持っている二つのマグカップの内一つを僕に渡して来た。

 「落ち着いたかい?良かったらこれ、温まるよ」

 「ありがとう…ございます」

 僕はそう返事をしつつ彼女からカップを受け取る。

 渡されたカップは湯気が立っており、中には黒い液体が入っていた。

 なんだ…これ?

 初めて眼にするその黒い液体に対し、僕の眉間にしわが寄る。

 飲むのに戸惑い僕はふと、隣にいる彼女のほうを見た。彼女は平気な顔でカップに口をつけていた。彼女自身が持ってきたものだから彼女が飲めるのは当然か。

 僕は隣にいる彼女に習いながら恐る恐る黒い液体の入ったカップに口を付けた。次の瞬間、

 「にっが⁉」

 舌に着いた黒い液体の強い苦みが、僕の口の中を支配した。カップに残っている黒い液体に対し表情が歪む。

 カップに入った黒い液体にそんな反応を見せる僕、その隣で彼女がクスクスと笑い声を零す。

 「少年にはまだ早かったか。そいつはコーヒーって言って、人間のところにある飲み物だよ」

 「コーヒー?」

 僕は液体を見つめながら思った。こんな黒くて苦い飲み物を何で作ったのか?馬鹿なのか人間は、

 「まぁブラックで渡した私も悪いんだけどね。はいこれ」

 ブラックでって何のことだ?そう言いつつ彼女は、ポケットから取り出した一つまみサイズのカップを二つ僕に渡して来た。

 「これは…」

 渡された二つのカップ。一つは透明な液体が入っており、もう一つは中が見えないようになっていた。

 「ガムシロップとミルクだ。それで少しは甘くなるだろう」

 「はぁ、」

 甘くなると聞き、僕は早速その二つを手元のカップに注いだ。カップを軽く回し、混ざって茶色くなった液体をゆっくりと口に運ぶ。

 「…あま~」

 彼女の言った通り苦みは消え、コーヒーは甘く優しい味になっていた。

 暫しコーヒー?の味を堪能した後、僕は彼女にもう一度あの白い花について話を聞くことにした。

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