こちら鉄探偵事務所

大塚

第1話

 その日、くろがね探偵事務所には依頼が殺到していた。


 普段は閑古鳥が鳴いている──まではいかなくとも、猫の手も借りたい、と言いたくなるほど忙しくなることなど滅多にない、至って普通の探偵事務所である。鉄探偵事務所と同規模の探偵社など都内には掃いて捨てるほどある。他社との大きな違いを敢えて述べるとすれば、それは。

「所長! テレビ出るなら出るって、なんで事前に言っといてくれないんすか!」

 鳴り続ける電話、それに受信ボックスに次々に飛び込んでくるメールの相手を同時にこなしながら、事務局長の羽撃はばたきが喚いた。所長と呼ばれた長身の男──鉄探偵事務所所長の大邑おおむらわたるはコーヒーメーカーの前で苦笑いをし、

「昨日放送だって知らなかったんだよ〜」

「知らなかった!? そんな言い訳が俺に通ると思うんすか!? ああもうまた浮気調査!!」

「いやほんとに知らなかったんだって……小野おのくん! 小野くんは信じてくれるよね!?」

「無理です」

 コーヒーカップを片手に大邑が発した声に、外出準備をしていた小野くんこと小野おの美佳子みかこは眉を下げて即答した。「そんなぁ」と情けない声を上げる大邑はこの事務所の所長で、私立探偵で、そしてタレント業に首まで浸かっている人間である。ワイドショーのコメンテーターからバラエティ番組の賑やかし、クイズ番組から探偵ドラマの監修に至るまで、ありとあらゆるジャンルに軽快なステップで顔を出して回っている。大邑の飄々とした佇まいと親しみやすいキャラクターは世代、性別を問わずにありとあらゆる人間の心を捕らえ、彼がバラエティ番組で「いかにも探偵っぽい発言」をした後や、クイズ番組で誰も答えられなかった設問を軽々と乗り越えた翌日には、今日のように依頼の電話やメールが殺到する。中には直接事務所を訪ねてくる人間もおり、羽撃以外の事務員は皆来客対応に追われていた。

「うちも見ましたよ、昨日……クイズ番組と、あと所長が監修した深夜ドラマも放送しとりましたよね?」

「あっ、小野くん見てくれたの? 嬉しいなぁ! クイズの俺、なかなかの活躍だったでしょ……あっ……」

 嬉しげに眦を下げる大邑の表情が次の瞬間ピシリと固まる。別に小野が誘導尋問を行ったわけではなく、彼が勝手に口を滑らせたのだが。高らかに舌打ちをした羽撃が、

「と・に・か・く! 所長、あんたがこの事態を招いたんすからね! 依頼の整理を手伝うか、あんた本人が捜査に出るか、どっちかしないと承知しねえっすよ!」

 右手にスマートフォンを三つ、左手で二台のパソコンを操作する羽撃に凄まれ、大邑は長身をしおしおと縮める。

 小野はといえば、事務所設立以来の仲だという事務局長と所長の漫才に付き合っている暇はなかった。小野美佳子は、鉄探偵事務所に所属している探偵なのである。鉄探偵事務所は大所帯で、二桁の人数の探偵を社員として雇っている。同僚たちは全員、大量に舞い込んだ依頼のために事務所を飛び出して行った。小野もまた、羽撃から回された資料を手に依頼人の元に向かうところだった。

「小野くん、小野くん、俺も一緒に行くよ」

「え? 所長が?」

「大邑ぁ!」

「クルマ出すよ! 一緒に行こう!」

 地獄の鬼のような声を上げる羽撃から逃れるように、自家用車の鍵を手にした大邑がぐいぐいと小野の肩を押す。溜息をひとつ吐いた小野は「ま、ええですけど」とくちびるを尖らせて呟く。小野自身、この事務所で仕事をするようになってまだ日が浅い。所長の大邑自ら同行してくれるというのなら、昨日のテレビ番組を見て依頼を寄越した相手も安心するだろう。三階建ての自社ビルの階段を駆け降りたふたりは、大邑のクルマに飛び乗って事務所を後にする。一秒でも早く他の事務員たちの手が空いて、羽撃のフォローをしてくれれば良いのだが──と小野は助手席でシートベルトを締めながら、思った。


「で、小野くん。小野くん担当の依頼はどんな感じなのかな?」

「うちのは……なんか、部屋に、不審者が出るとかいう……」

「不審者? 部屋に? ?」

 運転席でハンドルを握る大邑が首を傾げる。癖のない黒髪がさらさらと揺れる。大邑航は人当たりの良い性格をしているだけではなく、見た目もいい。いかにも芸能人然とした美男というわけではないのだが、他の人間には言えないような秘密を思わず明かしたくなるような、気のいい近所のお兄さん、もしくは保健室の先生、さもなくば交番の優しいおまわりさん、そのすべてに該当するような雰囲気を漂わせている。

 羽撃に渡された資料には確かに『不審者が現れる』という文字が並んでいる。自宅の前だとかマンションの自室の扉の前に不審者が、という案件は珍しくないが、部屋の中に、というとまた話が変わってくる。

「室内かぁ……それって、探偵より警察に通報した方がいいんじゃないかなぁ……」

「何か事情があるんかもしれませんよ。所長を頼りにしとるお客さんなんじゃけえ、ちゃんとお話聞くところから始めんと」

「手ぶらで戻ったら羽撃に硬い棒とかで殴られそうだもんね。じゃあ、行きますか」

 依頼人の自宅は、鉄探偵事務所がある区のふたつ隣、タワーマンションがひしめき合う地帯にあった。依頼人に来客用の駐車場を押さえておいてもらって良かった、と小野は内心呟く。適当に時間貸駐車場などに停めた日には、いったい幾らかかるか分かったものではない。

「大邑先生に直接来ていただけるなんて……!」

 最上階がいったい何階なのか分からないほどの超高層マンションの15階に、小野と大邑はやって来た。昨日クイズ番組で凄まじい成績を叩き出していた大邑航直々の訪問に、依頼人・矢田やだ香織かおりは甚く感動している様子だった。それはそうだろう。あの番組を見て鉄探偵事務所に依頼を寄越したのだから。

「いえいえ、ははは、私も本業は探偵ですからね。こうして直接調査に伺うことも勿論ありますよ」

「大邑先生に来ていただけたということは、もう心配しなくても大丈夫ということですね。嬉しいです」

「ははは」

 微妙にすれ違っている依頼人と上司の会話を聞き流しつつ、小野は部屋の中をきょろきょろと見回す。一階のエントランスを通り抜け、エレベーターに乗って15階までやって来た。この導線に不審な点は見当たらなかった。玄関の扉から部屋の中に入り、長い廊下を真っ直ぐ歩いてリビングへ。廊下の左右には幾つかドアがあったけれど、手洗い、脱衣所と風呂場、それに寝室や書斎、と室内については色々と想像できる。

「ところで、本題に入ってもよろしいでしょうか」

 リビングのソファに腰を下ろした大邑が、ぐっと身を乗り出す。小野はあくまで『助手』というポジションで彼の傍らに座り、手元にメモ帳とボールペンを構えている。矢田香織の視界には大邑しか存在していないようだが、それはそれで問題ない。

「はい、その、メールの方にも書かせていただいたんですが──」


 矢田香織は既婚者である。配偶者の名は矢田孝徳たかのり。現在29歳の香織よりひと回り年上の実業家だという。具体的にどういう仕事をしているのかという説明はなかった。大邑も問わなかった。ふたりは2年前に結婚し、このマンションに入居した。子どもはいない。香織は望んでいるが、孝徳の仕事が忙しくなかなか……ということだった。

 不審者が現れるようになったのは、1年ほど前からだという。


「1年?」

 大邑が裏返った声を上げる。

「そりゃまた……1年?」

「繰り返さないでください、先生」

 思わず低く声を出す小野は、やはり香織の視界には入っていない。ふくふくとした丸顔を俯けた香織は「そうなんです」と震え声で言った。

「そんな……365日も前から……どなたにもご相談なさらなかったんですか?」

「主人には伝えたんです、でも」

 香織の訴えを、孝徳は笑い飛ばしたのだという。ここはマンションの15階。エレベーターに乗るのにもオートロックを抜けなくてはいけないし、鍵だってふたつ付いている。香織が訴えるように、室内に不審者が現れる、なんてこと、起きるはずがない。

 それはそうだ、と小野もメモを取りながら考える。たとえばその不審者がマンションの住人だったとして、香織、もしくは孝徳に何らかの感情を抱いていたとして、部屋の前まで足を運ぶことはできるだろう……いや。

「ここのエレベーターは、こう、決まったフロアでしか降りれないシステムになってますよねぇ」

 大邑が言う。その通りだ。来客者はまずエントランスのオートロックを抜けるために目当ての部屋の住人と連絡を取り、三つあるエレベーターのうちのどれかひとつに乗るよう指示される。A、B、Cと名付けられているうちのCのエレベーターを使って、小野と大邑は香織の部屋までやって来た。エレベーターには階数を指定するボタンがなく、小さな液晶画面には既に『15』の文字が光っていた。香織曰く、カードキーを所持している住人を除く来客者は、ひとり、もしくはひと組に付きひとつのエレベーターに乗るというルールがあるらしい。ABC、どの機体を利用するかは部屋の住人が決めることができる。大抵は来客のタイミングで使われていない機体を選び、エレベーターホールまで移動させるのだという。

「郵便局の人が来た時もですか?」

「そうですね」

「すごいなぁ。でも、そうなると、大抵の人間は適当に15階で降りる、という行動は取れないってことになりますよね」

 丸いテーブルを挟んで正面のソファに座る香織が大邑の台詞に黙って頷き、俯いてしまう。つるりとした顎に指を当てて首を傾げる大邑も沈黙したので、部屋の中には何の音もなくなってしまった。これは困る。これ以上の情報を得られずに終わってしまっては、事務所で小野まで羽撃に叱られることになる。

「あの──矢田さん」

「は、はいっ」

 大邑の隣で置物のようになっていた小野が不意に口を開いたことに驚愕した様子で矢田香織が裏返った声を出す。

「不審者……っちゅうんは、部屋のどこに出られるんですか」

「え……?」

 小野が喋ったことに驚いたのか、はたまた耳慣れぬ訛りへの反応か。とにかく目を丸くする矢田香織に、小野は羽撃から受け取った紙の束を示しながら続ける。

「いただいたメールには、寝室やリビングに現れる、と書かれていましたが」

「あ、はい……そうなんです。夜。あの、主人が出張とか残業で戻ってこない夜、んです、不審者が」


 出てくる。


 大邑が糸目を僅かに見開くのが分かる。


 出てくる、とは。


「夜、ですか」

「はい、夜、ですので、今は」

 日が高い。

 広いベランダに通じる大きな窓からは燦々と陽光が降り注いでいる。


 閉ざされていた寝室の中の様子を確認し、探偵コンビは一旦矢田邸を辞することにした。今夜は矢田孝徳配偶者が帰宅するのだという。帰宅する、ということはつまり、不審者は出ない、ということだ。矢田香織の証言するルールが真実であるならば。

「どう思う?」

 タワーマンションの駐車場に停めたままのクルマの中で、大邑が尋ねた。小野は頬にかかる髪を左手でかき上げながら「嘘ですよ」と即答した。

「嘘? 嘘か〜。シンプルだな」

「他になんかありますかね、表現」

「いや〜。小野くんってほら、変な事件に結構首突っ込んでるじゃない。呪いとか。人魚とか」

「まあ……」

 人魚に関しては小野が自ら首を突っ込んだというか、人魚に関わる不穏な事件を背負い込んだ同業者を手伝うために派遣されただけなので、きっかけは小野ではなく大邑なのだが。

「メモ見せて」

「はい」

 メモ帳にはエレベーターのシステム、不審者が現れる場所、それに矢田家のリビングと寝室の間取りをざっくりとスケッチしてあった。

「これだけ?」

「はい。依頼人が言ってないことは、書きません」

「よろしい」

 そう。依頼人は言わなかった。不審者が現れて、その後何が起きるのかを。

「では小野くん、明日もう一度出直すとしよう」

 上機嫌に言う大邑が煙草を取り出そうとするのを叩き落とし「そうですね」と小野は笑う。

「明日はうちだけでも大丈夫じゃと思いますけど」

「そう? でも俺また羽撃に怒られるのやだから一緒に来るよ」

「煙草吸わんでくださいね」

「小野くん俺には厳しいよね。なんで?」


 ──翌日、夕刻。

 早朝から迷子になった猫を探して河川敷を走り回っていた小野と、羽撃に怒られたくないという一心で正午過ぎからそれに同行していた大邑は、揃って昨日のタワーマンションを訪れていた。猫は無事に発見された。

「小野くん。情報整理」

「不審者は矢田孝徳がいない時にのみ現れる。場所はリビング。もしくは寝室。だが、不審者の性別、年齢、姿形を含む情報は我々には開示されず」

「よろしい。結論は」

「不倫」

「行くか〜!」

 河川敷を走り回るためのデニムとTシャツ、それに長袖の作業用ジャケット姿の小野と、スーツのまま河川敷を彷徨うろついたせいで全身雑草まみれになっている大邑は颯爽とタワーマンションの前に立つ。今日は時間貸駐車場にクルマを停めた。最終的に幾ら支払うことになるのかは分からない。

 タワーマンションの側で代わる代わる張り込みをすること三時間。ようやくその男はやって来た。中肉中背、年の頃は矢田香織と同じぐらい。黒いマスクをし、サングラスをかけたその男は、小野が側で見守っていることに気付きもせずに15階の部屋と連絡を取り合い、オートロックの向こうに去って行った。

「──さて──」

 大邑がスマートフォンを片手に笑う。

「どれぐらいで連絡が来るかな?」

「二時間」

「小野くんは真面目だなぁ。俺は四時間と見たね」

「不倫じゃのに、そんなに時間かけますかね?」

「かけるよぉ。時間たっぷり使いたいからタレント探偵大邑航をアリバイ作りに利用しようとしてるんだから」


 ──三時間後。事務所で残業をしているらしい羽撃から大邑ではなく小野のスマートフォンに連絡が入った。

『例のタワマンのご婦人、また不審者出たって今度は電話。小野ちゃん今どこ?』

「マンションの前です」

『オッケ。大邑もいる?』

「おります。盾にします」

「ちょっとぉ!」

 そういうことだった。


 矢田香織は不倫をしていた。結婚後も仕事を第一に生活し、子作りにも積極的ではない夫への当て付けとして、学生時代の元恋人を部屋に呼び込んでいた。部屋の空気や香織の態度から不審なものを感じたらしい夫に問い質され、咄嗟に「部屋に不審者が出る」と訴えた。そのあまりに無理のある言い訳を夫は笑い飛ばし、妻への不信感をも一緒に忘れてしまった。だが、いつまた夫に勘付かれるか分からない。それで──ちょうどテレビに出ていた超有名人、名探偵大邑航の事務所をアリバイ作りに使おうと考えた。


 タワーマンションの管理人には小野が事前に話を通してあった。「不審者が出る」という香織の証言は孝徳経由で管理人の耳にも入っており、初老の男性管理人は「マンションの格が落ちるようなことを言わないでほしいが、立場上あまり踏み込めない」と悩んでいたので、香織から鉄探偵事務所に連絡が入ったと伝えた瞬間、オートロックもエレベーターもすぐに解除された。

 15階の矢田家の扉を叩きながら「大邑航です! テレビに出ている探偵です! 香織さん大丈夫ですか!」と騒ぎ立てたため、香織と間男は真っ青になりながらドアを開けてくれた。部屋に入った瞬間下着姿の香織に「どうか内密にしてほしい」と涙ながらに縋られた大邑はヘラヘラと笑いながら「でも不審者が出るんですよね?」と返した。まったく、と小野は思う。この上司は人当たりは良いが、実に性格が悪い。

「──もしもし?」

 香織と間男に群がられる大邑を眺めながら、小野は事務所で疲れ果てているであろう羽撃に連絡をする。

「香織さんは不倫しとりました。孝徳さんはどうでした?」

『してるよー』

 羽撃のうんざりした声が返ってくる。

『今ホテルに入ってったって張り込み班から連絡あったよ〜』

「オッケーです。ほいじゃあ、この件はもうおしまいですね」

『あとは弁護士とか挟んでもらうしかないよね。あ、請求書は俺が送っとくから、小野ちゃんお疲れ!』

「はーい」

 そんな程度の話だった。


 鉄探偵事務所は、また暇になった。所長の大邑が事務所で大人しくしているからだ。ぽつりぽつりと飛び込む依頼を片付けつつ、事務員も、雇われ探偵たちも皆淡々と日々を過ごしている。

「そういえばさぁ」

 デスクに向かって書類仕事を片付ける小野の耳に、大邑の間延びした声が聞こえてくる。

「明後日さぁ、またテレビの収録あってぇ……」

「……事前に申告すれば許されるとか思ってんすか?」

 羽撃の地を這うような唸り声に、大邑はふにゃふにゃと笑う。

「『配偶者の不倫を見抜くには?』っていうテーマで」

「下っ世話」

「でも探偵って下世話な商売じゃん、ねえ小野くん?」

 話を振られた小野は黙って大きく溜息を吐く。

 無事収録が終わったら、今度はきちんと放送日を聞き出さなくては。探偵業そのものよりも、上司の行動を見張る方がよほど厄介だ。


おしまい

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こちら鉄探偵事務所 大塚 @bnnnnnz

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