第12章 京都恋物語
第130話 Overheat
8月初旬。朝練を終えて大学のボクシング場を出た私をジメっとした空気が包み込む。せっかく汗をかいた後にシャワーを浴びたのに、このジメジメした空気が再度私の額に汗を浮かべさせる。嫌な季節だ。
これから少しずつ練習をペースアップして国体を目指していく。出場権はすでに手にしているから、あとは万全の体調で本番を迎えるだけだった。
ここ2カ月、私には大きな変化が生まれていた。
1年半、いや、まもなく2年か。私は練習中に突然、トレーナーも務めていた実の父親に「そのリーチでは未来がないからもうやめろ」と言われた。
リーチばかりはいくら練習しようがどうにもならない。生まれついての才能に近い。
なんとか泣くのを我慢したものの、夜、自室で一人枕を濡らした。あれからもう2年が経とうとしている。
それからというものの、私のボクシングに対するモチベーションは上がらなかった。幸い大学に入ってからもインカレ、国体と優勝させてもらったが、女子ボクシングの競技人口が少ない点も追い風になったことは自覚している。
正直こんな調子でリーチに勝る海外勢相手に通用するのか疑問もあり、そういう意味では父親の言うことは正しいと思った時すらあった。だからこそ練習して、努力で差を埋めようとした。来る日も来る日も練習に明け暮れた。
それでも練習中、私の不安が取り除かれることはなかった。いくら練習しても、結局は持って生まれたリーチの差で負けてしまうんじゃないかって。今年の春まで、私の一番のライバルは『不安』だったと言っていい。
それがこの春、私の周りを取り巻く環境が変わった。弟が今まで培ってきたボクシングの技術を駆使して、一人の女の子を助けたのだ。
私の考え方は変わった。私は今まで、大会で勝つことだけを考えてこの競技を続けてきたところがある。だからこそ、今後勝てなくなったらどうしようということばかり考えていた。天井を迎えることが怖かった。
ところが弟は『人を助ける』という新たな道を私に提示してくれたのだ。それこそ考え方を変えれば、培った技術を他の人に伝えるとか、競技の楽しみ方は無数にある。まだ私はこの競技の入口にも達していなかったことを、弟に気づかせてもらった。
ちょうどそんな時、大学に新しい友人ができた。笑顔が素敵なその友人は、なんの偶然か、弟が助け、交際を始めた女の子のお姉さん。
気が合った私たちはそれからごはんを食べに行ったり、遊ぶようになった。練習に明け暮れていた私の生活スタイルを少しずつ変化させてくれたのは、間違いなく弟だった。
「今日、明との試合だったよなぁ……。せっかくだし、ちょっと観に行きたかったなぁ……」
そう独り言ちながら、夏休みを迎えて人がまばらなキャンパスを歩いていると、突然私を呼び止める声が耳に入ってきた。
「あれ?美栄ちゃん?今日も練習?」
振り向くと、そこには相変わらず素敵な笑顔を浮かべる白鳥都ちゃんがいた。私の新しい友人にして、弟の交際相手のお姉さんでもある。
Tシャツにデニム、サングラスというラフな姿は、いつもの都ちゃんの恰好とは少し違っていて、なんだか新鮮だった。
「都ちゃん偶然~!そーよ、朝練してたところ。都ちゃんも夏休みなのに大学に用?」
「そうなの、ゼミの教授に書類渡さないといけなくてさ。しかも午前中しかいないとか言うからこんな時間に来ちゃった。美栄ちゃんももう大学終わりだったら、ちょっとお茶しない?」
「いいねぇ!そう言えば今日、遥ちゃんも京都なんだよね?」
弟の交際相手である遥ちゃんが、私の幼馴染でもあるカブに勝手にボクシング部のマネージャーに登録された話は弟から聞いていた。
あのゴリラ、やることが全部唐突なんだよなぁ。まあ、本人も色々考えてるみたいなんだけど。アイツの行動力、突破力は私から見ても目を見張るところがある。
「そうそう。遥も京都でさぁ……」
そう言いながら、都ちゃんの足が止まった。何か考え事をしているようだった。
「どうしたの都ちゃん?」
「……ねえ、今日俊くんも大事な試合なんだよね?」
「そーだね。幼馴染の強い子と、順調なら準々決勝で当たるって言ってたかな」
「……ねえ、美栄ちゃん、今から京都に行かない?」
カブより行動力がありそうな子が、私の目の前にいた。
地元から京都の会場まで約140km。都ちゃんが運転するレンタカーは、その道のりをわずか2時間弱で走破してしまった。
おとなしい優等生に見えた彼女だが、車を運転すると豹変するタイプらしく、名神高速道路をアクセル全開で飛ばしまくっていた。
「大気圏を突破しようぜ♪」なんて口ずさんでいる始末で、助手席に座っていた私のほうがオーバーヒートしそうになる。
会場に到着してすぐに、目的の弟の準々決勝が始まった。なんとか間に合った。彼女が飛ばしてくれなかったら間に合わなかったかもしれない。
会場の後ろのほうで見守っていた私に、ボクシングをほぼ見たことがない都ちゃんが色々と質問してくる。
「ねえ、俊くん、あれは勝ってるの?」
「うーん、厳しいかなぁ。最初のラウンドは明らかに落としてるし、今のラウンドもたぶん厳しいね……。もっと動けると思うんだけど、あのバカ弟、緊張してるのかな」
そんなことを言っていたら、インターバル中に遥ちゃんが俊に近づいて、何やら声を掛け、2人が拳を合わせるのが見えた。
「……かぁ、青春だねぇ……」
「相変わらず言い方が親父みたいだよ美栄ちゃん……」
隣で都ちゃんが苦笑する。彼女は彼女で、自分の妹が彼氏と拳を合わせる瞬間を見てドキドキしたのか、少し顔が赤くなっている。
それまでのラウンドと比べると、最終ラウンドは圧巻だった。サウスポーのくせにオーソドックススタイルに切り換えた俊が、明を圧倒していた。
「俊くん凄いね、素人の私の目から見ても相手の子を圧倒してる……」
「オスカー・デ・ラ・ホーヤ……」
「デ、デラウェア?」
それはブドウだね都ちゃん。
「オスカー・デ・ラ・ホーヤっていう6階級制覇した名選手がいるんだけど、左利きでオーソドックススタイル……まあ簡単に言うと、今、俊がやってるのはその名選手と同じ動きなのよ……」
「……なんだかよく分からないけれど、凄い、という理解でいいのよね?」
都ちゃんは必死に試合を観ながら、俊の動きを観察していた。体勢がリングサイドで見ている妹そっくりでなんだか面白い。
俊は結局負けてしまった。最後のラウンドの動きをもっと早くやっていれば勝てたのになあ……。
体育館裏口へ向かった弟、そして遥ちゃんにねぎらいの言葉でもかけてやろうかと2人を追いかけると、入口付近で懐かしい声が私の耳に入ってきた。
「もう一度、はっきり言わせてもらおう。俊、お前には才能はない。勝てない人間はすぐにでもこの競技をやめるのが賢明だ。賢くなれ、俊」
私の父である健太が、息子に対してまたしても冷たい言葉を浴びせていた。私は我慢できず、裏口を出て、父親に立ち向かった。私にボクシングの魅力を再確認させてくれた弟を侮辱するんじゃないよ、このバカ親父……。
「今日の美栄ちゃん、カッコ良かったなぁ」
名神高速道路を地元へ走る車の中で、運転席の都ちゃんがフフっと笑う。
「『これ以上、いくら父親だからって私の弟をバカにしないで。才能ある私の弟を侮辱しないで』なんてさ、自分の父親に向かって簡単には言えないよ……」
「……今振り返ると、私、自分の父親に向かって結構ひどいこと言ってたよね」
「うーん、いいんじゃない?元々冷たい言葉を言い放っていたのはお父さんのほうでしょう?でも正直、美栄ちゃんや俊くんがお父さんとここまで険悪な関係だったって知らなかったからさ、私、びっくりしちゃった」
そう言われて気づいた。そうだ、私はまだ都ちゃんに父親との関係について言っていなかった。俊は遥ちゃんに言ったかもしれないけれど、遥ちゃんは他の家庭の事情を家族に言いまわすような子じゃないこともよく知っている。
弟を通して家族ぐるみの関係になっている都ちゃんになら、私たち姉弟と父親の間に何があったのか、言ってもいい気がした。
少し話があると伝えると、都ちゃんは車をサービスエリアに入れ、そこでリラックスしながら話そうと提案してくれた。
夕暮れの琵琶湖が望めるベンチに座って、近くの自販機で買った缶ジュースを手に乾杯する。私はこれまでの出来事、因縁について、1つずつ説明していった。都ちゃんは黙って私の話に耳を傾ける。
「俊くんも、都ちゃんも、大変だったね……よく頑張ったよね……」
私が話し終わるかどうかのタイミングで右隣を見ると、都ちゃんが泣いていた。泣かせるつもりはなかったんだけどな。どうも白鳥姉妹は涙もろいらしい。
「まあ、そんな感じで、最近まで私はボクシングをやる意味がちょっと見いだせなかったんだよね。でも俊や遥ちゃん、都ちゃんのおかげで、私も少しずつ目標みたいなのが見えてきたんだよ。なんかね、ようやく新しいボクシングの楽しみ方を見つけられそうなんだ」
「私はほとんど何もしてないよ、俊くんが頑張ってくれたから、みんな変われたんだよ……」
都ちゃんが鼻をすすり、目をハンカチで拭う。
「私、都ちゃんには感謝してるんだ。今、私は間違いなく去年の今頃より充実してる。気持ちがちゃんと前を向けているし、心技体が揃ってきた気がするんだよね。これなら秋の国体にもいい流れで臨める気がするんだ。ありがとう都ちゃん。……もちろん、今日の運転もね?」
私が笑顔を向けると、彼女は軽く微笑み、何事かを少し考えるような表情を見せた。
遠くで、夕陽が琵琶湖の湖面に反射している。それから30秒ほど経っただろうか。唐突に都ちゃんが口を開いた。
「ねえ、美栄ちゃん、提案があるんだけどさ、秋の国体まで、私が美栄ちゃんの食事のサポート、してもいい?」
「……は、はい?」
「ずっと考えてたんだ、妹がお世話になったお礼を何かしらの形で返したいって。妹を救ってくれたのは俊くんだけど、俊くんを助けたのは間違いなく美栄ちゃんだと思う。以前も、今日も。そんな美栄ちゃんに、私が恩返しっていうのも変な話だけど、協力させてもらえないかな?」
こちらを向いた彼女の視線は真剣そのものだった。やる気があるかどうかは、一つの道を極めようとしている私にはよく分かる。たぶん、この話を受ければ、私はまた一つ、成長できる気がした。
「……ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて……これからよろしくお願いします」
「ん!よろしくね、美栄ちゃん。全国優勝、しようね!」
私は微笑む彼女と固い握手を交わす。大学2年の夏。私に『専属管理栄養士兼親友』が誕生した。
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