第128話 2分間
「ごめんね、いいところを見せられなくて……」
なんとも情けない声だなと自分でも思ってしまった。それくらい声に力がない。しかし、目の前の彼女は力強く首を横に振った。
「俊くんが必死に戦っていることが伝わってくるから。大丈夫、まだ試合は終わってないよ?諦めたらそこで試合終了だよ?私はここからの2分間で俊くんがやってくれるって信じてる」
「でも……もう2分しかないからね。ここからの逆転はちょっと難しいかもしれないよ……?」
「もう2分、じゃないよ。まだ2分、だよ?俊くん、私を最初に助けてくれた時に、8人を一瞬で倒したじゃん?フフ、まだ2分もある」
悪戯っぽく微笑む彼女を見て、ここまで張っていた気が少し緩んだ気がした。
「……2分で倒せる相手じゃないんだけどなぁ」
「私、残りの2分間で俊くんのかっこいいところ、もっと見たいなあ……なんて。おねだりしちゃダメかな?」
彼女がそう言い終わると同時に、ブザーが鳴ってインターバルが終わる。すると、遥が右の拳を前に突き出した。意図を理解した俺が、軽く右の拳を突き出し、彼女の拳に少しだけぶつける。
「ん!」と、満面の笑みを浮かべる彼女に背中を押され、俺は最後のラウンドに挑む。トレーナーも務めていた父親に捨てられて1年半。そうだ、今の俺には支えてくれる大事な人がいた。
試合前に父親にプレッシャーを掛けられたあまり、基本的なことを忘れていたみたいだ。心の中でそんなことを考えていた俺は、無意識に『左足を前に出して構えた』。
俺は生まれつきの左利き。箸も左手で持つし、ペンも左手で握る。当然ボクシングをやる時も構えはサウスポースタイルだから、右足を前に出す。
目の前で相対する明もさすがに驚いていた。そりゃそうだよな、お前は俺のサウスポースタイルしか見てないもんな。突然左足を前に出されて泡食った表情になるのも分かるよ。
俺が会長の命令で右のオーソドックススタイルを使っていたのは明も知っているが、あれは素人や同世代のアマチュア相手。
同世代ではあるが、俺たち世代の中でも図抜けた実力を持つ明相手の時はいつもサウスポースタイルだった。オーソドックススタイルの俺と拳を交えた経験は、明にはない。
「俺を相手にしているのにサウスポーを捨てただと……?勝負も捨てたのか?」
明が小声でつぶやく。顔には明らかに戸惑いの色が浮かんでいる。その奥に見えた父親は、黙って腕を組んでいた。
「まだ勝負は捨ててもいないし、あと2分、よろしく頼むよ」
そう言って俺は挨拶代わりに明と拳をあてると、すぐに相手の懐に飛び込んだ。アウトボクサーの明はすぐに距離を取るが、これまでの俺のサウスポースタイルとは違う間合いに戸惑い、これまでより間合いが取れていない。
相手が慣れないうちに懐に入ると、右のジャブをボディに入れていく。明のガードが明らかに追いついていない。
会長の指示で最近ずっとオーソドックススタイルでやっていたせいか、本来のスタイルとは違う動きに特に違和感はない。こういう時のために、会長は俺にサウスポースタイルを禁じたのかもしれないと思うと、少し尊敬の念が増す。
当然右からの攻撃だから、相手は左腕でブロックしてくる。明の意識が自身の左に向いたところで、俺は少しだけ足を入れ換え、今度は逆、左のストレートを明の右脇腹にねじ込んだ。
間一髪体をずらした明だったが、避けきれず右の脇腹の端に有効打として当たる。至近距離から力のこもったストレートを受けたことで、明の体勢が一瞬崩れた。
その瞬間を見逃さなかった俺は、今度は本来のサウスポースタイルに戻し、右足を前に出して体勢を低くする。
いかに明が同世代でトップの力を持っているとはいえ、一度体勢を崩せば並の選手だ。右、左とコンビネーションが面白いように当たっていく。
そうやってコーナーに追い詰めていくと、会場からあがる悲鳴に近い声が耳に入った。ダントツの優勝候補がコーナーに追い詰められているのだ。しかもこの大会で初めて。悲鳴が上がるのも無理はないだろう。
コーナーに追い詰め、俺が一度右のフェイントを入れて左を放つも、さすが相手はダントツの優勝候補だ、一瞬で体勢を立て直し、右腕でガードした。好機は逃せない。今度は一度左のジャブを入れると、続いて右を放つために右ヒジを後ろに引く。
先ほど右のジャブはフェイントだったことから、明はこの右の動きを再度フェイントだと思ったのだろう。次に来るであろう左のストレートに警戒し、体勢が少しだけ、自身の右に傾く。
俺はガードがなくなり開いた左脇腹にそのままジャブを放つと、明は苦悶の表情を浮かべた。完全に俺のペースだった。このままなら勝てる……。そう思った瞬間、俺と明の間にレフリーが割って入った。2分間は俺が思った以上に短かった。
呼吸をすることもほとんど忘れていた俺は、荒い息遣いのままリングの中央へ戻った。明らかに肺に酸素が足りていない。グローブをはめた手を両膝に置いてなんとか体を支える。こうでもしなければ倒れるかと思うほど疲れている。
チラっと横目で明を見ると、明も相当息が上がっていた。同じようにグローブをはめた手を膝に置いていた。
たぶん周りから見れば、疲労度合いは同じくらいに見えるだろう。あとはもう、ここまでの3ラウンドでどれだけ有効打が入ったかだった。
最終ラウンドは間違いなく俺のほうが明を上回っていた。が、最初の1ラウンド目が一方的だっただけに、勝敗に関しては何とも言い難い。
レフリーが有効打の確認をする。最終ラウンドの2分間よりよっぽど長い時間に感じた。目の前では、遥が手を合わせて、祈るように目をつぶっていた。
隣りの百合子が複雑そうな顔で、心配するような目線を俺たち2人に送っていた。今更、遥の隣に百合子が座っていることに気づいたが、どうしてそうなったのか不思議に思ったものの、深く考えるほどの余裕は、今の俺にはない。
カブはというと、腕を組んで目を閉じている。ああ、コイツは勝ち負けが分かっている顔だね。まあ、最終ラウンドは我ながらよくやったと思うよ。今考えれば2ラウンド目だって結構食らいついていたと思う。
ただ、最初のラウンドだよね。明、お前、さっき言ってたもんな。「ボクシングは心技体のスポーツだと思っている。どれか欠けたら負ける」って。俺は最初のラウンド、間違いなく『心』が欠けていた。
『判定、3-2、青!』
レフリーの声がリングに響く。高校2年生の夏、準々決勝で俺のインターハイは終わった。
「ごめんね遥、負けちゃって」
「ううん、俊くんは頑張ったよ、本当にかっこ良かったんだから」
試合後、人通りがほとんどない会場の裏口の階段に座った俺の頭を、遥が優しく撫でる。最終ラウンドに全力を使い果たしたのか、立ち上がる気力も湧かない。
応援してくれた遥に申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、彼女の優しい声音に少し救われた。
するとその時、突然、彼女の手が止まった。そして頭から手が離れる。どうしたのかと思い顔を上げると、俺が見知った顔が近づいてくるのが分かった。遥が近づいてくるその人物を睨んでいる。
「……ひどい試合だったな」
ジャージ姿の父親の健太が低く、鋭い声を放った。家を出ていってから1年半近く経ったが、改めて正面から父親の顔を見ると、少し白髪も増えて頬がこけたようにも見える。
「最初のラウンドからいいようにやられて、最終ラウンドは付け焼刃みたいなオーソドックス。一度しか通用しない手を使って、満足したか?」
そうなんだよな、この手はたぶん一度しか使えない。仮に次また明と当たる時、間違いなくアイツは対策を取ってくる。いくら前よりスムーズになったとはいえ、明は本来とは違うオーソドックススタイルで倒せる相手ではない。
「俺は言ったはずだぞ、『お前には才能がない』と。ここがお前の天井だ。どうやってもお前は明には勝てない」
冷たい言葉が俺の耳に入ってきて、心を突き刺す。隣りで立っていた彼女の手は震えていた。
「……そんなことは……ないです。私は俊くんが勝てるって、信じてます……」
遥が声を振り絞り、父親に立ち向かった。本来俺が反論しないといけないところで、彼女に反論させてしまったことが申し訳ない。
「……君は俊と交際しているのかい?君がボクシングという競技にどれくらい関わっているか、知っているかは分からないが、この競技に携わる人間で、今日の試合内容を見て俊が明に勝てると思った人間はいないだろうね」
感情のこもっていない言葉に、彼女も言葉を失ってしまった。こんな父親を持っていることが、遥に対して申し訳なくなってくる。
「もう一度、はっきり言わせてもらおう。俊、お前には才能はない。勝てない人間はすぐにでもこの競技をやめるのが賢明だ。賢くなれ、俊」
最後の言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で何かが切れる音がした。目の前の父親、いや、もう父親とも思っていない男に掴み掛かろうと立ち上が……る寸前、俺の真後ろ、階段の上から、これまた聞き慣れた声が響く。
「賢くなるのはあなたのほうだと思うけどね、お父さん」
思わず振り向くと、そこには姉の美栄と、遥の姉である都さんが立っていた。
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