第127話 6分間

1年ぶり、いや、最後に拳を交えたのは中学3年の秋だから、もう1年半ぶりか。


小学5年の時に出会った明とはそれなりに仲良くやっていた。むしろかなり仲良くやっていたほうかもしれない。お互いの家に遊びにも行ったし、ごはんだって食べに行ったことがある。


しかし中学3年の秋、俺たちの関係は変わった。父親は俺を否定して、明を選んだ。選ばれた側の明とは何かギクシャクしてしまって、ジムで顔を合わせてもお互いほとんどしゃべらず、スパーリングなどもすることはなくなった。


明の才能は端から見ても明らかで、中学2年の頃には劣勢になることが多かったのだが、久々に見た明の試合は、中学生の時より着実に進化を遂げていた。


相手にやりたいことをやらせていない。基本に忠実な動きをより昇華させたことで、動きの質なんかは日本ランカーの翔一さんよりも上に見える。


ただ今日、これまで明と戦った2人と俺では決定的に違うところがある。なにせ俺は『水谷明を知っている』。


小学5年生の時から、少なくとも4年半拳を交えた分、ある程度明のボクシングに慣れているのが俺の強みだった。勝機があるとすればそこだった。もちろん、向こうも俺をよく知っているんだけれど。



俺たちの試合まであと1つ。大一番に向けて体を軽くほぐしていると、後ろから聞き慣れた、忘れることのない声が聞こえてきた。


「まだ、ボクシングをやめてなかったのか」


1年半前、俺たち姉弟を捨てた父親・健太が、いつのまにか俺の後ろにいた。相変わらず鋭い眼光、心なしか以前より無表情に近くなった気がする。


「俺は言ったはずだぞ、お前には才能がないと、はっきりとな。なぜ才能がないのに続ける?」

「……今はボクシングをやる理由があるからだよ」

「勝てもしないのに、か。おめでたい考えだな。そんなにこの世界は甘くない」


氷点下のような冷たい言葉が俺の心に刺さった。1年半近く経ってようやく父親から受けたトラウマは少しずつ薄まったと思ったのに、次第に足が重くなっていくのを感じる。


「……試合の前に相手高校の生徒にプレッシャーでもかけるつもり?」


俺は後ろを振り返らず、父親の姿を見ないで言い放つ。冷たい言葉を浴びせた父親の姿を見たくなかったし、見るのが怖かった。


しかし父親は止まらない。一歩ずつ歩を進めて、俺の横にやってくる。しかし視線は感じない。父親は俺のことなど見ていない。


「あそこで、武史と百合子ちゃんの隣にいるのはお前の彼女か」

「……だったらなんだって言うんだよ」

「ボクシングをやっている限り、お前はあの子を幸せにはできないからな。才能がない姿をこれ以上彼女に見せるな」


最後の言葉はさすがに刺さった。隣の発言主のほうを見ず、俺は至って平静を保っているように見せたが、高鳴る心臓の鼓動は父親には伝わったかもしれない。


「お前は明には勝てん」


そう言い残すと、父親は去っていった。俺の心にまた深い傷を残して。




リングに上がる時も俺は若干上の空だったかもしれない。目の前にいる明が鋭い視線を浴びせるが、まともに明の顔を見られずやや俯き気味になってしまった。


俺は赤コーナー、明は青コーナー。俺は明の顔も見れず、着ている紺色に近いユニフォームの下の部分しか見えていない。


2回戦をいい形で突破し、せっかく流れができていたのに、最悪に近い状況で明との3ラウンド、計6分間の短くて長い時間が始まってしまった。


明はアウトボクサー、つまり相手から少し距離を取るタイプだ。リーチの長さで俺は若干明に劣る。こちらが少しでも間合いを詰めると、左からのジャブが飛んできてすぐに距離を取られた。


懐に入ろうにも明のフットワークは高校生のそれではない。コーナーを背負わせるために右を一発フェイントで入れるが、さすがに俺を5年見てきただけあって、そのパターンも読まれていた。


読まれていたことで一瞬そこから先の組み立てを躊躇した俺に、死角から明の左ボディが飛んでくる。右腕を動かしガードしにいったが間一髪で間に合わず、鋭い拳が俺の脇腹に突き刺さる。


決して重くはないが、鋭く、的確に放たれたこのパンチは間違いなく有効打にカウントされるだろう。すぐにポイントを取り返しにいかないといけないものの、その時には明はもう十分な間合いを取っている。


水谷明のボクシングに派手さはない。口さがない人間は「つまらない」なんて言ってしまうかもしれないが、基本を極め、無駄を極力そぎ落としたスタイルにはもはや恐怖を覚えるほどだ。


取り返そうと間合いを詰めるが、踏み込んだ右足の更に外に踏み込んだ明に、俺の左拳は届かない。


絶妙な距離感を取られた俺は、再び左からのジャブをボディに受けた。肝臓の下のあたりにしびれる痛みを感じる。これもまた有効打にカウントされるだろう。


あっという間に1ラウンド2分間が終わってしまった。正直何もできなかったに等しい。今判定が下ったら5-0で完敗するだろう。そう思っていたところに、俺の目の前にいた明から低く、冷たい声が飛ぶ。


「……俊、こんなものか?俺が知っている薬師寺俊はどこに行った?」


それは2mほど離れたところにいたレフェリーも聞こえないくらい小さな声だった。どこに行ったって言われても、どこに行ったかなんて俺も知らねえよ。俺が聞きてぇよ。


肩を落としながら1分間のインターバルに入る。コーナーサイドの椅子に座ると、そこに自席から立ち上がったカブが近寄ってきた。


「アナタ、さっき健太さんと話していたみたいだけど、なんか言われたの?」

「まあな。才能がないって話をちょっとな」

「……試合前に相手選手へ攻撃なんてマナー違反どころの話じゃないわ。明らかにおかしいわ」


カブが怒りをむき出しにしていた。いつも冷静沈着に見えて、怒るとこの腐れ縁は目を少し大きめに開けて、太い眉毛が吊り上がる癖がある。10年近く付き合えばそれくらいのことは分かる。今、目の前にいる腐れ縁のゴリラは相当怒っていた。


「安い挑発だよ……。そんなのプロじゃよくあることだろ。それに乗っちゃってる俺も俺だ」

「まさか白鳥ちゃんについても何か言われたわけじゃないでしょうね?」

「……どうだろうな」


最後は言葉を濁したところで、インターバル終了のブザーが鳴る。向こうサイドのコーナー脇には父親が控えているのが見えた。




言ってくれるよな、「薬師寺俊はどこだ」なんて。明、俺はお前みたいに『自分のボクシング』が何かは分からない。


そういう意味では親父の言っていることは当たっているのかもしれないな。10年近くやってきたのに自分自身が分からないのだから、それは一種の『才能のなさ』なのかもしれない。


体は少しずつ動くようにはなってきた。俺に何かあるとすれば、この10年の積み重ねだろう。


幸い、いい指導者に恵まれたと思う。親父がいなくなって折れる寸前だった俺を、会長は見捨てず、むしろ練習メニューをより増やしてしごいてくれた。


定期的に拳骨は飛んでくるが、愛情かけて育ててくれていることはよく分かる。育成が上手い。歌舞ジムの若手の層が厚いのも納得だ。


染みついたこの10年の経験はダテではないらしく、明の的確なコンビネーションをすんでのところで交わしたり、自然とブロックできてはいる。


ただこちらの手数が足りない。これまでの相手とは明らかに違う。明に隙らしい隙がない。たまに隙らしいものを見せるが、それが罠であることもよく知っているから安易に飛び込めない。しんどいね、これは。正直手詰まりに近いかもしれないね。


試合前の先生はいい案を出してくれたなと思う。俺があえて明に右を打たせる体勢をとると、向こうも警戒しているのか過度に攻めてこない。


おかげで2ラウンドの有効打の数はそうでもないが、こちらが有効打を入れられているわけでもない。2ラウンド目の2分間は恐ろしく短く感じた。客観的に見て3-2程度で明が有利なラウンドだっただろうか。


ブザーが鳴って、再度インターバルに入る。コーナーサイドには人影が見えた。また怒ったカブが俺のことを待っているんだろうなと思い、ふと観客席を見ると、カブは自分の椅子に座って腕を組んでいた。


今回俺をコーナーサイドで待っていたのは恋人だった。


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