第126話 やっぱりいい子だ

初戦とはまるで見違えるような動きだった。ボクシング初心者の私でも、俊くんの初戦と2戦目の動きが明らかに違うことは分かる。


準々決勝が終わって隣で一休みしていた歌舞くんも、「これが見たかったのよ」と明らかに興奮を隠し切れていない。


6月半ばの夜、ボウリング場の裏手の公園で見せたサウスポースタイルから、電撃のように鋭いパンチを繰り出していく姿に、私も興奮を抑えきれず、思わず隣で寝ていた杉森先生をペシペシと叩いてしまった。


まあ、私の仕事の一つはこのダメ教師を起こすことだったから、ある意味仕事は果たしたと言えるんだけれど。


1ラウンド2分も経たずに試合は終了。明らかに初戦と違う動きをしていた俊くんに、相手選手も驚いているようだった。


「お疲れ様!めちゃくちゃかっこ良かった!」


戻って来た俊くんに対して、思わず抱き着きそうになったのをなんとか我慢し、精いっぱいの笑顔を向ける。それに対して嬉しそうにはにかんでくれた彼が、なんだかかわいい。


「全然違う動きだったわ。最初からそれをやりなさいよ」


私の隣で歌舞くんが口を尖らせていたけれど、目は嬉しそうだった。歌舞くんはすぐに立ち上がって、自分が座っていた私の隣の席を譲ってくれる。


「……いよいよ明くんと、だね?」

「ああ。まだ明の2回戦が終わってないけど、たぶん勝ちあがってくるだろうね」

「大丈夫だよ、俊くん、今の試合もホントかっこ良かったんだから」

「あはは、かっこいいか悪いかで勝敗が決まるわけではないけど、次の試合も頑張るよ」


さっきは試合から戻ってきてもまるで笑顔も見せなかったことを考えれば、彼の心には少し余裕も生まれているようだった。


私は俊くんと明くんの因縁を話にしか聞いていないけれど、本人たちの間にはたぶん私が想像する以上の深い溝みたいなものがあると思う。そんな大一番に向けて、心に少し余裕を持って臨めるようで私は安心した。



俊くんがテーピングを巻き直している間に、明くんの2回戦も終わった。こちらも圧勝で、薬師寺俊と水谷明、小学生からの幼馴染の2人による準々決勝が実現することとになる。


「しっかし強いなぁ、アイツ……。元々上手かったけど、上手さに磨きが掛かってるよな」

「困ったわねぇ、アタシの想像以上に強くなってるわ。さて、どうしたものかしら……」


左側で幼馴染2人が作戦会議を始めると、おもむろに私の右側に座っていたおじさんが気だるげな声をあげた。


「……薬師寺よ、あの水谷という選手は強いなぁ」


いや、だからその話を今、歌舞くんと俊くんはしてるの。先生はもう起こさないから寝てて。明日、いや来週くらいまでずっと寝てて。


「今更素敵な情報ありがとうねおスギ。……それとも何か、他に感想でもあるのかしら?」

「……歌舞よ、あの水谷という選手は右利きなのかい?」


え?先生の口調が急に変わった?思わず右を向くと、そこには腕を組み、真面目な顔をした杉森先生がいた。え、これ誰?私たちの担任?天気の状況と一緒に私たちの交際を暴露した人?


「そうよおスギ。明ちゃんは右利き。それが何か?」

「水谷の今の2回戦の相手もサウスポーだったな。対サウスポーだと右のジャブが相手の左のジャブと被るだろう。それでかは分からねえが、水谷の左足がかなり外に出てる気がするんだよな。定石ではあるがよ、ありゃ相当サウスポー対策を練習してる動きだろ」

「……ええ、おスギの言う通りだわ。明ちゃんはたぶん俊を意識して練習してる」

「俺の動きを封じるような足の使い方だよな。あそこに足を置かれると、こっちも窮屈で右も簡単に使えない……」


私を挟んで、左右から熱いボクシングトークが始まってしまった。杉森先生がガチトーンで話す姿を見たことがないものだから、思わず話を聞き入ってしまう。


「薬師寺のストロングポイントはやっぱり『眼』だろ?薬師寺よ、極論、水谷に右しか使わせなければどうなる?」

「そうですね……左右のコンビネーションを使われると厄介ですが、元々アイツはアウトボクサーなので、右腕中心の攻めならたぶんある程度の見極めは可能だと思います」

「なるほどね。おスギの言いたいことは分かったわ。その案採用しましょう。最初から対策を取られているのであれば、その裏をかいてみましょう」


なんだか私が知らない間に、先生の作戦が採用されたみたい。こんな真面目でボクシングについて話せるのに、普段なんであんなにやる気がなさそうなの……?


私が不思議そうに見ているのに気づいたのか、先生が深く息を吐いて、そのまま背もたれに体を預けながら足を組んだ。


「白鳥ぃ、今、なんで普段コイツ適当なのに?って思ってるなぁ?」

「あ、思ってないです!」


ごめんなさい思い切り思ってました。


「へへ、あれよ、能ある鷹はよ、なんだっけ、あのよ、なんかを隠すんだよ。なあ、薬師寺」


急に話を振られた俊くんが苦笑いしていた。さっきの真面目トーンはどこに行ったのか、先生はいつものダメ人間に戻っていた。たぶんさっきの真面目トーンは私の気のせいなんだと思う。



選手待機スペースに向かう俊くんを送り出した私は、試合前にお手洗いへ向かった。


歌舞くんが『ナンパ除けのボディーガード』として裕二くんをつけてくれたおかげで、私は周りからの視線を浴びつつも、声はかけられずスムーズにお手洗いを済ませることができた。


裕二くんはフライ級の3回戦で負けてしまったようで、表情は若干暗い。お手洗いを済ませ戻る時にも落ち込んで少し下を見ていた裕二くんが気になって、思わず私は彼の背中を軽く叩いた。


「大丈夫だよ、裕二くんもかっこ良かったよ?」

「白鳥先輩……。先輩は優しいっすね。普段だったら負けたら会長に説教されて、その後武史さんにみっちりしごかれますから……。俺に優しいのは俊さんと先輩のカップルだけです……」


本心から感謝するような目線でこちらを見ていた裕二くんの表情から察するに、たぶん普段は相当色々やられているんだろう。その分気持ちも追い詰められちゃうから、クールなタイプの女の子に甘えたくなるのかな?


なんて勝手に考えてしまったけれど、さすがに裕二くんをうちの妹に紹介する気にはなれなかった。自力でなんとか頑張ってねと心の中でエールを送る。


そうして私たちが体育館の入口に戻った時、入口の近くの柱にもたれかかって何やら物思いにふける女の子の姿が目に入った。


白いブラウスを身にまとい、胸元に赤いリボンを着けたその女の子は、遠目からでも分かるほどの美人で、近くを通りがかる男の人たちが声を掛けようかコソコソ相談している姿も見える。


「あれ?百合子さんっすね。久々に見ても美人だなぁ」


そうか、裕二くんは前からジムに通ってるから百合子さんを知ってるんだ。美人でも付き合いが長い分かあまり興味もないみたいだけど。


物思いにふけるというか、寂しそうな顔をした彼女に、私はいてもたってもいられず、自分から声を掛けに行った。


「……ねえ、百合子さん。俊くんと明くんの試合、まもなくだよ。……一緒に見よ?」


私の提案が意外だったのだろう、彼女は目を見開いて、驚きのあまり口も開けていた。


「な、なんで……?私、さっき遥ちゃんを挑発するようなことを言っちゃったんだよ……?」

「……昨日のお風呂の時間さ、私、本当に楽しかったんだ。同い年のいいお友達ができたって、私、嬉しかったんだよ?確かにさっきはムっとすることは言われたけれど、本心からあんなこと言うような女の子じゃないって、私はあのお風呂の時間で十分分かったから。何かきっと、抱えているものがあるんじゃないかなって思ったんだ」


裕二くんが隣で「え、お風呂の時間??」なんて反応を見せていたけれど、私は無視して、彼女の目を見る。彼女は彼女で、私が視線を向けていることに気づいて、申し訳なさそうに俯いた。そして……。


「ご、ごめんね遥ちゃん、さっきはあんなこと言っちゃって……!あとで、遥ちゃんにはちゃんと事情を話すから……」


涙声になって、百合子さんが私の両肩を掴む。手は震えていた。震えているのに、それでもなんとか謝ろうとしてくる。やっぱりいい子だ。思った通りだ。


「私だけじゃなく、俊くんにも聞かせてあげていい?」

「……それは、まだ心の整理がつかないかも……」

「フフフ、なら歌舞くんなら大丈夫?私、2人きりだとまた怒っちゃって、今度はビンタなんかしちゃうかもしれないから」


俯いていた彼女が驚いて顔を上げる。それに合わせて、私は悪戯っぽくチロっと舌を出した。


百合子さんの手を引っ張って会場に戻ってきた姿に歌舞くんは最初びっくりしていたけれど、私たちの表情を見て何か納得したのか、私たち2人分の席を開けてくれた。


裕二くんも列の端に座って、歌舞くんに「いやぁ、女の子ってよく分からんもんですねぇ」なんて呑気なことを言っている。


「バカね裕ちゃん、齢16のボウヤが理解できるほど、女心は単純じゃなくってよ?」


齢17の歌舞くんがそれを言っていることがなんだか面白い。


ちょうど俊くんと明くんの試合の直前の試合が終わったところだったようだ。ギリギリセーフだったなと思いながら俊くんの姿を探すと、リングを挟んで奥のほうで、何やら男の人と話しているのが見えた。


相手は私の知らない男の人だった。……いや、私はあの人を知っている。初めてのデートで歌舞ボクシングジムに行った時に見た、壁に飾ってある写真。俊くんによく似た、ベルトを巻いてポーズを取っていた男の人だった。

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