第122話 ホテル・クイーン&プリンセスの夜

「あー、染みるわぁ」


名前も知らない黒髪の美人さんが大浴場で足を伸ばし、いかにも気持ちよさそうな顔を浮かべていた。


あれから私たちは体や髪を洗うと、大浴場の湯船に一緒に浸かりながらおしゃべりを楽しんだ。


整った目鼻立ち、細すぎない眉は大和撫子と例えていい容姿だろう。和服なんかいかにも似合うんだろうなぁ。右目の下のホクロがチャームポイントと言っても良さそうだ。


しかも最初、脱衣所で思わず私が見てしまったこともすぐに許して、快活そうな笑みを浮かべているように、人あたりも柔らかい。たぶん男女問わず人気がある女の子なんだろうなと私は直感する。


「そういえば、まだ自己紹介してなかったですね、私、白鳥遥と言います。高校2年生です」

「あら、かわいいお名前!てかタメなんだね、敬語もなしでいこ!私は中道なかみち……」


彼女が名前を言いかけたところで、私は隣に置いていた桶に誤って腕をぶつけてしまい、その音の影響で名前まではよく聞き取れなかった。


「あ、ごめんなさい……いや、ごめんね、私ちょっとドジなところがあって……」

「フフフ、遥ちゃんかわいいね。恥ずかしがり方までかわいい」


中道さんが私を見ながら朗らかに笑っていた。いつの間にか名前呼びされていることに気づくが、全然嫌じゃない。それもまた、彼女の距離の詰め方が上手い影響なのだろう。


「遥ちゃんはどうしてここに泊まってるの?」

「えっ?……あ、私、ボクシング部のマネージャーやっててさ、それで来てるの……。中道さんは?」

「へぇ、マネージャーさんなんだ。私はマネージャーじゃないよ、通ってるの女子高だしね。今回は応援かな」

「応援なんだぁ。中道さんみたいな美人さんに応援されたら、その人頑張っちゃうんだろうねぇ」


私が何気なく言うと、中道さんは頬をほんのり赤く染めていた。温泉に浸かって顔が赤くなっていたのかもしれないけれど、この反応はそちらではなく、恥ずかしがっているほうじゃないかとなんとなく予想できる。


彼女はそのまま顔半分を湯船に沈め、口から漏れ出た空気が泡となって彼女の顔の前から飛び出している。


「彼氏……さんの応援?」


そんな反応がかわいかったものだから、私が更にもう一段階踏み込んだ。中道さんは両手で顔を覆ってしまった。先ほどの快活な印象とはまるで違う反応が、またなんだかかわいらしい。


そんな彼女の反応を楽しんでいると、反撃とばかりに中道さんからも質問が飛んできた。


「そ、そういう遥ちゃんも、マネージャーやってるボクシング部に好きな子がいるんじゃないの?」


図星を突かれたことで私の顔も熱くなる。顔が熱くなったのは大浴場の温泉の温度が、普段入っているお風呂の温度より高いからじゃない。


「う、うん……。ボクシング部に……彼氏がいて……」

「や、やっぱり!そんな気がしたんだ!いいなぁ、私女子高だからさ、同じ高校の彼氏を応援するとか、そういう体験したかったよぅ……」

「あれ?中道さんは彼氏さんの応援じゃないの……?」

「ううん、まだ付き合ってないんだ。アプローチは前にもしたんだけどさ、色々あってまともに受け取ってもらえず付き合えなくて……。今回も久々に会うんだけど、もう私のことも覚えてもらえてるのか謎」


中道さんは深い溜め息をつく。これだけの美人さんに思われているのに、随分鈍い人がいるんだなぁ。わざわざ京都まで応援に来てもらってるのに……。


「だから遥ちゃんがうらやましいんだ。私もその、好きな人がボクシングをやってる姿がカッコいいところに惚れたところもあるし……。遥ちゃんは彼氏さんがボクシングしている姿も間近で見てるんでしょ?」

「あ、うん……。でもまだ付き合って1カ月ちょっとだし、ちゃんと彼とお話するようになってからまだ2カ月ちょっとだから、彼の試合も練習試合と、インターハイの予選くらいしか見てないんだけどね。それ以外でもちょっと、彼がボクシングをしている姿を見たっちゃ、見たけど……」


さすがに剛さんに強制的にスパーリングさせられたところを見たとか、そもそも私が彼に助けられている話は初対面の人にはできない。


その間も中道さんは、他に私しかいない湯船で平泳ぎしながら「いいなぁ、いいなぁ」なんて呟いている。裸で平泳ぎしているそのかわいらしい姿に思わず笑ってしまった。


唯ほどじゃないけれど、私は結構初対面の人と仲良くなるのが早いほうだと思う。でもいきなりここまで初対面の人とウマが合うのも珍しかった。それこそ高校1年春に同じクラスになった麻友と仲良くなって以来かもしれない。


お風呂から上がって脱衣所で髪を乾かしている時も、私たちは他愛ない話で盛り上がった。中道さんの笑顔は裏表がない気がして、なんだか気持ちが落ち着いた。


脱衣場を出て、私たちは大浴場前の畳のスペースに腰をかけながら紙コップに注いだ冷たい水を飲む。入口脇に設置されていたウォーターサーバーで注いだ水が体の隅々まで行き渡るような気がして、とても気持ちいい。


「遥ちゃん、いつまでここにいるの?」

「うーん、彼氏と18時半にこの場所で待ち合わせなんだ」

「え、もう18時半じゃん。私、お邪魔だしもう行くね?あ、せっかくだし連絡先だけ交換しない?」

「うん!しようしよう!」


中道さんからの願ってもない提案に、私がスマホを取り出そうとしたその時。


「え……百合子?どうして……?」


私の耳に、大好きな人の声が入ってきた。そして大好きな人が呼んだ名前は、私の名前ではなく……。


男湯のほうに目を向けると、タオルを首にかけて顔を上気させていた俊くんの姿が目に入る。彼の視線の先にいたのは私ではなく、私の左隣で水を飲んでいた女の子だった。


彼女のほうに目を移すと、文字通り固まっている。硬直した顔は先ほど快活に笑っていた女の子とは思えない表情だった。


「俊……?なんで……?」


先ほど仲良くなった女の子は、自分が大好きな彼氏の知り合いらしい。


「百合子って、……中道さんのこと?」

「あれ……私、さっき自己紹介でそう言わなかった……?」

「あ、ごめん、その時桶に手が当たってうまく聞き取れなくてさ……あなたが、中道百合子さんだったんだ……」

「……もしかして、さっき遥ちゃんが言ってた、『ボクシング部にいる彼氏』って、俊のこと……?」


ぎこちなく無言で頷いた私を見て、中道百合子さんは少し驚いた顔をすると、彼女はすぐになんだか悲しげな表情を浮かべた。


「私、湯あたりしちゃったみたい……。先に部屋に戻るね。遥ちゃん、今日は楽しかった」

「あ、中道さん……!」


私が呼び止める声を振り払うかのようにして、百合子さんはエレベーターに乗り込んでいった。私たちは彼女のその後ろ姿をただ眺めるだけだった。

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