第58話 負けられない戦いがそこにある
大切な人を守るために強くなる、か。
1年半前、父親に見放され、俺はなぜ自分がボクシングをやっているのか、理由が分からなくなっていた。
冬の足音が少しずつ聞こえる頃、父親は明を選んだ。ジムで、面と向かって『お前には才能がない』と言われた瞬間は今でもたまに思い出す。
それまでは、父親もやっていたボクシングで強くなれば、父親に喜んでくれるんじゃないかという単純な動機でやっていた気がする。
才能を否定された俺は、精神的にどん底を味わった。息子を否定した父は、俺の同級生を選んだ。ボクシングをやめようとも思ったが、カブが引き留めてくれた。
あのゴリラの元には、明が進んだ隣の県の高校を始め、数多くの強豪校からの誘いがあったんだよな。
それでもアイツは「強豪校の空気はアタシに合わない。アタシに合う空気を持っているのは地元のこの街とパリの街だけ」なんて、わけのわからないことを言って、俺と同じ京和学園に進学した。
入った先のボクシングには1つ年上の先輩が1人だけ。ほとんど新設みたいな状況だったけれど、精神的にどん底だった俺にとっては、むしろそんな環境が良かったのかもしれない。
1年以上経って少しずつ立ち直ってきた矢先に、ひょんなことから俺は遥を助けた。自分でも驚くくらいキレのある動きだったと思う。1年近く片想いしていた女の子のために、自然と体が動いた。
その後彼女に感謝されたことで、俺は強くなることの意味を少しだけ知った気がする。1年前、2回戦で負けて悔し涙を流したこの会場に、俺は少しだけ強くなって帰ってこれたのかもしれない。
そんなことを考えながらボクシング場の入口の階段脇に腰を下ろしていると、左頬を冷たい感触が襲う。
驚いて振り返ると、そこには俺に大切な人を守る喜びを教えてくれた少女が、キンキンに冷えたスポーツドリンクのペットボトルを手に持ち、笑顔で立っていた。
「……俊くん、差し入れ」
曇天の6月。太陽のような笑みを浮かべた美少女が、梅雨時の曇り空に光をさした。
「そっかー……。徳山先輩、そんなことを言ってたんだ……」
人通りの少ない階段の端に腰かけていた俺の隣に座った遥に、俺は先ほど先輩と交わしたやり取りの内容を全て伝える。遥のほうも先輩が泣いていたのが気になっていたようで、内容を聞いて納得したようにうなずいていた。
「俺さ、去年のインターハイ県大会のあたりではボクシングをやる理由がよく分かってなかったんだよね。色々あって……。いや、遥にはこの際言うけど、父親に捨てられたんだ」
遥は無言で、俺の左手を握りながら話を聞いている。大きな優しさに包まれたようで、なんだか支えられている気分になる。俺は1年ちょっと前、父親に捨てられた話、そして当時の心境をありのまま、彼女に伝えた。
「才能がないって言われて、周りの目も気になっちゃって、去年の今頃、何もできずにこの会場で2回戦負けを食らっちゃったんだよ。目的意識なくボクシングをやってたところがあってさ、今考えると笑っちゃうくらいダメダメだった」
「……笑わないよ。俊くんのこと、誰も笑わない」
「……ありがとう遥。いつも支えてくれてありがとう。遥のおかげで、俺はなんでボクシングをやるのか、最近ちょっと分かってきた気がするんだ。俺が強くなりたいと願うのは、遥を守れるようになるためなんだと思う」
我ながらだいぶクサいことを言っている自覚もあるが、それでも不思議と恥ずかしがらず、隣の彼女に俺の今の本心を伝えられていると思う。
俺の手を握る遥の握力が次第に強くなっていくのを感じる。彼女の真剣な瞳から放たれた視線が俺を射抜く。
「俺さ、今日、優勝するから。遥がいてくれるから俺はもう大丈夫だっていうことをみんなに証明したい。捨てられた俺だけど、俺にはもう支えてくれる存在がいるって、みんなに伝えたいんだ」
俺は隣に座る彼女に正面から向き合い、両手を取る。すると彼女はフフッと笑い、近くに人がいないことを確認すると、そのまま体を前に持ってきて俺のことを抱きしめた。
「ちょ、ちょっと遥!」
「……ダーメ、もう少しギュっとさせて」
首元に手をまわした彼女の肌の暖かさ、そして胸に当たる柔らかい感触が、俺から力を抜いていく。心臓の鼓動が信じられないくらい早い。それは彼女も一緒のようで、柔らかい胸の感触を通して心音が伝わってくる。
人が来たらどうしようかなんて考えていたけれど、同時に、この時間が永遠に続けばいいのになんて考えてしまった。それと同時に、俺の目から涙がこぼれ落ちた。彼女の持つ安心感がそうしたのか、俺は心のつかえが取れる感触を受ける。
1分ほど抱きしめたころ、彼女は首元に回した手から力を抜き、少し距離を取ると、俺の両肩に手を置いた。
「私、今日俊くんが優勝するって信じてるから。大丈夫。俊くんはきっと優勝する。優勝して、全国大会に行こう。私も一緒に行くから。応援に行くから!」
最後、白い歯を見せてニコっと笑った彼女に対して、俺は心の中で優勝を誓った。
「今年のインターハイ、全国大会は京都なんだけどさ……。終わったら……京都観光なんか、いいかもしれないね……」
「うん!京都デートしよう!和服を着て、俊くんと和風デートなんていいなあ!スイーツ巡りもいいし……。あ、でも俊くん減量があるか……」
「大丈夫だよ、大会が終わったら食べられる。スイーツ巡りもしよう」
話を聞いていた彼女は更に笑顔を輝かせる。太陽のような笑みを浮かべる彼女のために、俺の負けられない戦いが始まった。
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