第57話 日本海海戦
同門対決はほぼ一方的に裕二くんが攻めるような形になっている。1ラウンド目、徳山先輩はガードを固めるだけで防戦一方だった。「さすがに裕ちゃん有利ねえ……」と歌舞くんも顎に手をあてて、考えるように唸る。
「徳山先輩は厳しそう……?」
「そうねえ、白鳥ちゃんから見ても分かるかもしれないけど、ひっくり返すにはちょっと実力差が足りないわ。ただ……」
「ただ……?」
少し口ごもる歌舞くんを、私と麻友、卓くんが少し期待するような目で見つめた。
「見たところまだ有効打はそこまでないわ。ヤマさんも普段の練習から裕ちゃんの動きを観察していたんでしょうね。裕ちゃんの欠点をある程度把握してるのか、まだ決定的な差にはなってないわ」
「裕二のヤツ、決めに行こうとすると焦って攻めが単調になるんだよな。あの徳山って子がそれを分かって対処しているフシがある」
「ここから裕ちゃんがより単調な攻めになるのを、ヤマさんが待っているような感じはあるわね」
そう言いながら似たような体勢で戦況を見つめている歌舞親子がちょっと面白く、私は心の中で少し笑い、2ラウンド目に入る2人を見つめた。
「歌舞氏!つまり徳山氏は迎撃態勢を整えているということですな!まさに『天気晴朗なれども波高し』!」
「日本海海戦の連合艦隊司令部、第1艦隊の
興奮した卓くんを抑えるように言う歌舞くん。2人が一体何を言っているのか私にはよく分からない。そして2人のやり取りを聞きながら、間に挟まれた麻友はまた俯いていた。
日本海海戦、じゃなかった、徳山先輩と裕二くんの試合は、最終的に判定まで持ち込まれたものの、裕二くんが勝った。歌舞くんの話を聞く限り、結局内容は裕二くんの圧勝に近いものだったのだという。
「ヤマさんもよく頑張ったわ。引退試合、いい試合だったわよ」という歌舞くんの言葉を聞いて、私はハッとした。そうだ、徳山先輩は3年生。インターハイで引退となる。
高校からボクシングを始めた、まったくの初心者からのスタートだったと俊くんから聞いているが、裕二くん相手に最後まで戦った姿は、徳山先輩のこれまでの2年半の集大成に思えた。
「大したもんだよ、裕二はウチのジムに小学生の頃から顔を出していたからな。もうボクシング歴は6年くらいになるだろう。アイツを相手に、初心者から始めてここまでやるんだから、練習で手を抜かなかったんだろうな。ロードワークとか称して半日いなくなるどこかのバカ野郎に見せてやりたいよ」
「あらパパ、アタシのことかしら?♡」
「バカ息子お前、先週の日曜もロードワークとか言って半日帰ってこなかっただろ!」
「半日なんてオーバーなこと言わないでよもう!5時間よ、5時間」
「それを世間では半日って言うんだよこのバカ息子!」
なんだか場外乱闘が始まりそうだ。歌舞親子の言い合いに周囲がザワつき、自然と隣にいる私たちにも視線が集まる。なんだか視線が痛い。今だけこの親子と他人のフリをしていたい。
ふとリング奥の選手控えスペースに視線を移すと、負けた徳山先輩が泣いているように見えた。近くにいる俊くんが、なぜか少し距離を取りながら様子を見守っている。
「俊くん、先輩のこと慰めに行かないのかなぁ……?」
「フフ、今ヤマさんは負けた悔しさが一気にやって来ているところよ。慰めるのはまずはヤマさんが自分で、負けた事実と向き合って咀嚼できるようになってから。もう少し経てば俊が慰めに行くわよ」
微笑みながら言う歌舞くんの目からは、表情、言葉とは裏腹に、今すぐ駆け付けたいという思いが伝わってくる。
「ウチのジムの教えだからな、それ。負けた人間にすぐ近づかない」
「ええ、パパ。こればかりはいつも徹底されてもらっているわ、私も、俊も」
そんな親子のやり取りが終わるかどうかのところで、俊くんが少し落ち着いたような様子を見せた徳山先輩の元へ駆けよる。
何事か言葉を交わすと、徳山先輩はもう一度顔を覆って泣き、俊くんへ頭を下げると涙をぬぐいながら外へ出ていった。これが引退試合になった先輩に言葉を掛けるって、想像以上に大変なことなんだろうな……。
「白鳥ちゃん、俊が心配でしょう。行ってきなさいな。そして励ましていらっしゃい」
「う、うん!ごめん、ちょっと行ってくるよ」
そう言って私は席を立ち、俊くんの元へ駆けだした。
☆☆☆
徳山先輩が負けた。3年生、今日が引退試合。他校の生徒ならまだしも、相手は裕二。自分の学校の後輩だ。
高校からボクシングを始めた先輩に対して、裕二は小学校の時から歌舞ジムに顔を出していたから、キャリアの差、実力の差は明らかだった。
それでも、負けたら引退の先輩はガードを固めて、チャンスを虎視眈々と狙っていた。もし焦った裕二の攻めがより単調になっていたら、勝敗は分からなかったかもしれない。
選手の控えスペースの端、コンクリートの柱にモタれ掛かりながら、徳山先輩は涙を流していた。勝った裕二が少し離れたところから先輩の様子を心配そうに伺うと、俺のほうをチラチラと見てくる。
アイツなりに慰めようかどうか迷っているのだろうが、自分を負かした後輩から声を掛けられるのは嫌なものだろう。そして歌舞ジムでは『敗者をすぐ慰めにいかない』という教えもある。
俺は裕二にアイコンタクトで大丈夫ということを伝えると、先輩が落ち着くのを待った。少し経って先輩が少し落ち着いたように見えたことから、柱のそばに寄り声をかける。
「2年半、お疲れさまでした」
「……俊くん。ありがとうね、来てくれて」
「いい試合でした。先輩の積み重ねを見せていただきました」
「フフ、そんな、僕には後輩たちに見せられるほどの積み重ねはないよ」
まだ潤んだ瞳で、徳山先輩は首を振る。謙虚で信頼の厚い先輩らしい反応だった。唯一の3年生であり、しかも1つ下にはあのゴリラ。心労もあっただろうに。
「……俺たちはいつも自分勝手で、俺も、歌舞も先輩には迷惑をかけっぱなしでした。取っ組み合いになりそうなところで、いつも笑って間に入ってくれたのが先輩です。俺は先輩に恵まれました」
「……ううん、感謝するのはこっちだよ。去年の春まで学年で唯一の部員で、これから1人、心細くやっていくのかと思ったところに、君と歌舞くんが入ってきてくれた。経験者の君たちがきてくれたおかげで、トレーニングのやり方も教えてもらえた。僕が県大会の準々決勝まで来れたのは間違いなく君たちのおかげだよ」
「先輩……」
ボクシング部のジャージを羽織り、次の試合が行われているリングに目を向けていた男からは、やりきったという雰囲気が確かに伝わってきた。
「それとね、僕は俊くんに感謝しないといけないんだ」
「俺に……ですか?」
「うん。僕は偶然テレビでボクシング中継を見たことでこの競技を始めたんだけどね、何のために強くなろうとしているのか、イマイチ分からない部分があったんだよ。でも、最近の俊くんを見て、僕は何のためにボクシングをやり、何のために強くなろうとしているのか、その意味を知ったんだ」
先輩は真面目な表情を浮かべ、俺の目をまっすぐ見る。先輩の頬には滴る汗の跡と、流した涙の跡が残っていた。
「この前、俊くんが白鳥さんを守っただろう?強くなれば、この手で大切な人を守れるんだと思った時、僕はボクシングという競技が更に好きになったんだよ。いつか僕にもそんな時がやってくるかもしれない。大学でもボクシングを続けようと思うし、受験が終わったら歌舞ジムに入ろうかと思うんだ。本当にありがとう。君のおかげだよ」
そう言う先輩の目から再び雫がこぼれる。そして俺に頭を下げると、涙を手でぬぐってボクシング場の外に出ていった。
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