第56話 Spectators

昼食後にボクシング場へ行くと、リングサイドの観覧用の椅子には歌舞くんと卓くんが並んで座っていた。すでに試合が全て終わった歌舞くんは、準備を1年生たちに任せて休んでいるところらしい。


「おう、バカ息子、試合は終わったのか?」

「もう、パパったら。とっくの昔に終わってるわよ。アタシの試合も見ないで剣道の試合を見ていたんですって?子どもの晴れ姿を何だと思ってるのかしら」

「どうせ勝つ試合を見ても面白くねえんだよ。お前がこんなところで負けてみろ、うちのジムは普段の練習から手を抜いてるんじゃないかって思われちまう」

「何言ってるんだか。他のジムの10倍厳しい練習だって他のジムの子引いてるわよ?」


口を尖らせながら抗議する歌舞くんは、珍しく子どもっぽい。そりゃお父さんの前なんだからそうもなるか。


「あら?林葉ちゃんも来たのね?随分興奮した表情だけど……。ああ、そういえば林葉ちゃん、昔のボクシングマニアだったわね」

「え、歌舞くん知ってたの?」

「知ってるわよそんなの。去年の冬の期末テストに体育の筆記テストあったでしょ、林葉ちゃんが作ったやつ。あの筆記テストの問題文に登場する外国人の名前、全部20年近く前のボクシング世界チャンピオンたちの名前よ?」


全然気づかなかった……。いや、確かに、やけに問題文に外国人の名前が多いなとは思ったんだよね……。


チョーシリワットくんとか、クラティンデーンジムくんとか、なんでこんな言いにくい名前の外国人を問題文に使ったんだろうって一瞬疑問に思ったんだった……。


「それで、バカ息子、結果は?まさか2ラウンドまで行ってないだろうな?」

「観にも来ないのに好き勝手言っちゃって、困ったパパ。行ってないわよ、決勝まで3試合全部1Rで終わったわ。物足りないから、家帰ったら翔一クンにでもスパーリング付き合ってもらおうかしら……」

「ア、アマチュアボクシングで3試合全部1ラウンドKO!?」


私の右側にいた林葉先生が変な声を上げる。それに対して「そ、それって珍しいことなんですか……?」なんて、ボクシングのことをよく知らない私は思わず尋ねてしまった。


「し、白鳥さん……。高校ボクシングはグローブの関係であまりKO勝ちはないの。なのにヘビー級とはいえ全部1Rで終えて優勝って……」


顔をひきつらせる先生を見て、私は歌舞くんが簡単に言っていた行為がどれだけ難しいことなのかを何となく察した。


「ほらほら、アタシのことはいいから。もう俊の準々決勝が始まるわよ」


そんな常識外れの行動を起こした張本人は、先生の言葉なんかまるで意に介さず私たちを席に誘導する。私たちはリングサイドに、左から卓くん、麻友、私、歌舞くん、剛さん、林葉先生の順に座って、俊くんがリングインする姿を見送った。




試合が始まる直前もまだ、林葉先生はまだ剛さんに現役時代の話を聞いている。私はというと、隣の歌舞くんに怒られていた。


「まったくもう……。アナタたちがお昼食べてる間に俊の2回戦終わっちゃったわよ?」


歌舞くんに怒られて私は深く後悔している。去年負けた2回戦、一つの壁になりそうなところを応援するために私は来たのに、のんびりお昼を食べている間に試合は終わってしまっていた。心の中で俊くんに手を合わせて謝罪する。


今年の俊くんはシードだったらしく、2回戦からの登場。見事勝利したことで、準々決勝に駒を進めていた。準々決勝の相手は見覚えがある人。あれは……。


「しかし坂田ちゃんも不運な男ね。今の状態の俊に準々決勝で当たっちゃうんだから」


そうだ、あれは村田工業の坂田さんだ。先月の練習試合についていった時に見た顔を私は思い出す。


「ねえパパ、今日俊に左でいいって指示出したでしょ?」

「ん?ああ、そうだな。大会だしな。明以外の同年代相手でも左でいいだろ」

「アタシ知らなかったから、2回戦見てびっくりしちゃったわよ。県の2回戦でサウスポースタイルの俊とぶつかるなんて、外れクジもいいところだわ。勝負にならないんだもん。今日の俊、キレキレよ」


私はボクシングのことがよく分からないけれど、歌舞くんが言うように、俊くんの動きはこの前の練習試合よりいいように見えた。


練習試合で俊くんに鋭いボディーブローを入れられて倒れた経験があるからか、坂田さんは両腕でガードを固める。


俊くんは軽く右の拳を当てると、左腕で打つように見せかけ、体勢を崩した坂田さんに再度右、左とリズム良くお腹の両サイドにパンチを当てていった。


「いいコンビネーションね。最後の左フック、ちょっと入ってるみたいだしこれはそう時間が掛からなさそうだわ」


隣で『解説』の歌舞くんが微笑む。


「俊、前より動きがいいな」

「そりゃそうよパパ。毎日愛妻弁当食べてるんだもの」


愛妻弁当というワードを耳にして、私は顔を熱くしてしまう。いや、もちろんそういう気持ちで作ってるんだけどさ、そんな大きな声で言わなくてもいいじゃん……。


「ああ、そうだ、白鳥ちゃん、俊に毎日弁当作ってくれてありがとうな。食事もボクサーにとって大きな要素。白鳥ちゃんが管理してくれてるから何も心配いらねえ。いい奥さん持ったな、俊」

「良妻を得たわよね、ホント。こんなにかわいくて料理上手の奥さんをもらって勝てなかったらアタシがぶん殴ってるところよ」


真面目な顔でお礼を言う剛さんと、からかうように言う歌舞くんの言葉を聞いて、私は熱くなった顔を俯かせる。


「あら?もう終わりかしら。早かったわね」


歌舞くんの言葉で頭を上げると、俊くんと坂田さんの間にレフリーが割って入って試合を止めていた。


「あれが終わりの合図なの?」

「ええ、RSC。レフリーストップコンテスト。実力差があり過ぎたり、一方的な内容になったらレフリーが試合を止めて終わらせるの。まあ、さっきから坂田ちゃんはまるで手が出てなかったし、妥当っちゃ妥当ね。これで俊は準決勝進出。白鳥ちゃん、おめでとう」


私はせっかく応援しにきたのに、顔を俯かせている間に試合が終わってしまったことを悔いた。


「白鳥ちゃん、まだ俊の試合は準決勝、決勝と残ってるわ。なんならこの後フライ級の裕ちゃんとヤマさんの試合があるから、これからもしっかり応援してあげて頂戴」

「え、徳山先輩と裕二くんの試合があるの?」

「そーなのよ。運悪く2人が準々決勝でぶつかっちゃってねぇ。ヤマさん、頑張ってここまできたんだから勝ち上がってほしいんだけど、裕ちゃんの実力を考えると、難しいかもしれないわねえ」

「ハッ、裕二が県で負けたら、罰として翔一も連帯責任で町内50周させてやる」


2つ隣の席から物騒な声が飛んだ。平翔一さん……裕二くんのお兄さんが知らないところで事故に巻き込まれていることを、私は心底不憫に思った。




そのタイミングで、私たちの後ろの席から「ウーッス」と低い声が飛んでくる。振り返ると、そこにはモジャモジャ頭の杉森先生が気だるげな表情で背もたれに背中を預け座っていた。


「あらおスギ、もう俊の準々決勝終わったわよ?随分長いお手洗いだったわね。大腸のご機嫌は良くて?」

「おー、歌舞、俺の腸は今日も絶好調だ」


そんなやり取りの最中、奥にいた林葉先生が急に立ち上がり後列に回ると、こちらに寄ってきて、急に杉森先生の胸倉を掴んだ。


「今頃来て!生徒の試合も見ない!服もダボダボ、あなたはここで何をしてるんですか!」

「おー、茜、来てたのかあ」

「来てたのかじゃないでしょ!ちゃんと顧問の仕事をしなさい!シャキっとしなさい!あと林葉先生と呼びなさい!」


真っ赤な顔でまくしたてる林葉先生に、その後ろにいた観客の皆さんが引いていた。副主任も大変だなぁ、こんなダメな教師が担任団にいると……。


「あら、ヤマさんと裕ちゃんが出てきたわよ」


取っ組み合いを見ていた私は、歌舞くんの言葉を聞いて再度視線をリングに移す。左手に少しヒョロっとした、真面目そうな風貌の徳山先輩、右手に短髪、徳山先輩より背は低いものの筋肉質の平裕二くん。


「頑張れ2人ともー!」


面識のある2人の試合はなんだか複雑な気持ちになるが、私は精一杯の声を張り上げた。


「もったいないわねえ、ここで同門対決っていうのも。ヤマさんには裕ちゃん有利の下馬評を覆してほしいわ」

「歌舞氏!桶狭間の戦いしかり、かつて歴史上には多くの番狂わせが存在しましたぞ!1905年5月27日から28日に行われた日本海海戦でも、大日本帝国海軍がロシア帝国のバルチック艦隊を倒したように!」


2つ左の席で卓くんが興奮したように叫んでいる。卓くん、例えがちょっと、古いかな?


ふと手前の麻友を見ると、顔を真っ赤にして、徳山先輩と裕二くんが相対するリングのほうを見ていた。


「ふーん、なるほどねぇ……♡」


右隣で歌舞くんが妖しい声で囁いた。

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