第5章 クラスのアイドルに恋人ができた件
第43話 バイカルアザラシは字が余る
汗の匂いが染み込んだ室内。ユラユラと揺れるサンドバッグがチラチラと視界に入る。
大好きな女の子相手に1カ月ぶり、2度目となる救出劇を演じた3日後、月曜日の昼休み。俺はもう定番になった赤い弁当箱をすぐに空にした後、弁当箱に挟んであったメモ用紙を手に持って、恍惚の表情を浮かべていた。らしい。
「平日の月曜から気持ち悪い顔しちゃって……」
隣のパイプ椅子に座りながらコンビニ弁当を食べていた歌舞武史が深く溜め息をつき、額に手を当てる。おいゴリラ、お前にそんな顔をさせるくらい、今の俺の顔は気持ち悪かったのか?
小学校からの同級生、幼馴染というより腐れ縁と言いたい関係の太眉の大男は心底呆れた様子を浮かべていた。
「恋人ができた途端にこれじゃ、先が思いやられるわね。授業中もそのメモ用紙見ちゃって。ああ、情けない情けない……」
俺の手に持っていたメモ用紙には、流麗な文字で『俊くん♡練習がんばって♡』と書いてある。朝、下足箱でこのメモ用紙を開いた瞬間、意識が飛びそうになった。
以前から腐れ縁がハートマークをつけた紙を渡してきたことはあったし、渡された瞬間丸めてゴミ箱に捨てていたものの、好きな女の子からもらうハートマークがついたメモ用紙は別格で、これだけ刺激の強いものだとは知らなかった。
「し……しかたないだろ。美味しいお弁当に、こんなメモまでもらったら……」
「なーにが『仕方ない』よ。心ここにあらずみたいな顔で授業を受けて、デレデレしながらお弁当食べて。今後毎日この顔を見せられると思うとたまったもんじゃないわ。白鳥ちゃんにお弁当作るの、やめてもらうようにお願いしようかしら……」
「カブ……。お前、そんなことしたらどうなるか分かってるんだろうな……」
「あーら♡ヤル気?アタシに勝負を挑むなんていい度胸してるわ。かかって来なさい、アタシの渾身の寝技で骨抜きにしてやるんだから♡」
いや、お前は拳闘家なんだから寝技使わないでボクシングルールでやれよ。いつもだったらとてもではないがこのゴリラに勝てる気がしない。しかしこんなメモ用紙をもらってしまった今、俺は自分が無敵になった気がしている。
「……俺、今ならカブ相手に戦っても勝てる気がする……」
「はあ?アタシに勝つなんて100年早いわ」
「いや……こんな美味しいお弁当を食べて、こんなかわいいメッセージまで見たら、俺はもうお前にも負ける気がしない……」
「あらそう。立ちなさい俊。今からアタシとスパーリングするわよ。愛しの恋人が作ってくれた愛妻弁当の中身、もう一度外に出させてあげるわ。夜ごはんもちゃんと食べられるように、今からアナタのお腹の中、空っぽにしてあげる」
腐れ縁が立ち上がり、俺の胸倉を掴もうとするのを周りにいた1年ズが必死に止めた。
「裕ちゃん!止めないで!アタシはこのナメた顔した男の胃を今から空っぽにするの!」
「武史さん!落ち着いてください!月曜の昼からリングをゲ○まみれにしないでください!」
「アタシを止めるって言うの?……フフ、裕ちゃん、いいの?まずアナタからヤッちゃうわよ……?」
裕ちゃんこと1年生部員の平裕二に、カブは妖しげな視線を向ける。「ヒィィィィ!」っと声をあげた裕二がその場で尻もちをついた。裕二、なんか飛び火させたみたいですまん。
「フフ、カブくん、そのくらいにしてあげなよ」
見かねたのか、ボクシング部唯一の3年生である徳山先輩が俺とカブの間に割って入った。
「カブくん、俊くんはずっと好きだった女の子と結ばれて、今一番幸せな時を過ごしてるんだから。これは体を張って彼女を守った俊くんへのご褒美なんだと思う。見守ってあげようよ?」
「ヤマさん……。仕方ないわね、俊、ヤマさんに感謝しなさい。ヤマさんに免じて今日はここまでにしておいてあげるわ」
そう言うとカブは再度椅子に座って、舌打ちしながらパックのお茶を飲む。ヤマさんはそんなカブに向かって微笑むと、視線を俺に移した。
「俊くんも気を付けなよ?幸せなのは分かるけど、俊くんも知っている通り、ボクシングは命の懸かったスポーツだ。僕たちは常に命を懸けていることを頭に入れてやらないといけないと思う。あまりに気持ちが散漫になってボクシングにも影響が出たら、その白鳥さんは悲しむんじゃないかな?」
「あっ、はい……。気を付けます……」
「うん、気を付けてくれればいいんだ。心の隅にでも置いておいてよ。その状態ならいくら彼女との時間や思い出を楽しんでもいいと僕は思うよ?」
大人だな、この人は。ダテに俺たちの先輩をやっていない。まともな先輩がいて良かった。顧問も変だし部長はもっと変なこの部活において、唯一の良心とも言える存在のヤマさんを、俺は改めて尊敬する。
「ヤマさん……、アナタ、いい男ね。好きになっちゃいそう。ねえ、アタシと付き合わない?」
「は、はは、遠慮しておくよ……」
腐れ縁の言葉に、徳山先輩は頬を引きつらせながら苦笑する。おいゴリラ、先輩をナンパするんじゃないよ。
「あーあ、アタシも恋したい。先週末からシベリア準特急見直していたら余計に恋したくなっちゃった……」
「え、カブくんシベリア準特急知ってるんだ!?」
突然、徳山先輩が少し興奮した表情を浮かべた。え、みんな知ってるの?知らなかったの俺だけ?俺、マイノリティだったの?
「あら、ヤマさんもシベ準ファン?アタシ、先週末にエピソード50まで観ちゃったわ……」
「エピソード77まで全部観てるよ!エピソード50というと……ああ、ボルシチの塩加減を間違えた主人公が、仕方ないからコンビニにカップラーメンを買いに行く回だね!あの回は感動するよねぇ……」
つい数秒前に、この先輩を『まとも』と表現した自分を恥じる。感動に対するハードルが低すぎて話にならない。
「フフッ、通ね、ヤマさん……。アタシも久々に最初から見直してるけど、やっぱりいいわよね、シベ準。エピソード26で主人公がバイカルアザラシを季語に俳句を詠んだシーンなんか、感動して涙が止まらなかったわ……。あのシーンを観たら、みんな恋がしたくなるわよ」
バイカルアザラシは季語にもならないし、字が余るだろ。しかもそのエピソード26、湖畔で焚火しながらウオッカ飲んでたら、間違えてこぼしてしまって服に火が燃え移ったあたりの回だよね?
冷静に俳句詠んでる場合じゃなくない?俺は内心そう思ったが、これ以上話をややこしくしたくなく、触れるのをやめた。
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